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9月 15, 2025の投稿を表示しています

「事実」を強調する報道がなぜ信頼を失いつつあるのか

 インターネットが普及し、誰もが情報を発信できるようになった現代。かつて「事実を伝える」ことを使命としてきた報道は、社会における信頼の基盤でした。しかし、その「事実」という言葉が乱用されるにつれて、逆に人々の不信感を招く状況が広がっているのです。本稿では、「事実」を強調する報道がなぜ信頼を失っているのか、その背景と課題を掘り下げ、今後のあり方について考えていきます。 第一に、「事実」という言葉の扱いの軽さがあります。多くのニュース記事やテレビ報道では、「事実関係を確認した」と強調されることが増えました。しかし、実際には限られた証言や一部の資料だけに依存し、十分な裏付け調査がなされていないケースが目立ちます。たとえば事件報道では、警察発表がそのまま「事実」として流されることがありますが、それが後に修正されたり、誤解を生む内容であったりする例は少なくありません。にもかかわらず、その「訂正」は目立たず、人々の記憶には初期報道だけが残ってしまう。この構造こそが「事実」という言葉への信頼を削いでいるのです。 第二に、報道のスピード競争が問題を深刻化させています。デジタルメディアの台頭によって、どの媒体も「誰よりも早く情報を伝える」ことに注力せざるを得なくなりました。その結果、事実確認より速報性が優先され、誤報や不完全な情報が「事実」として広められてしまいます。これは報道の使命である「正確さ」と矛盾する姿勢であり、受け手の信頼を失わせる最大の要因となっています。 第三に、「事実」の切り取り方そのものにも問題があります。ニュースは必ずしも全体像を提示しているわけではなく、編集の過程で特定の視点が強調されます。たとえば「ある人の発言」を事実として伝える場合でも、それがどの文脈で語られたかを省けば、まったく異なる印象を与えてしまうでしょう。この「文脈の省略」が繰り返されることで、人々は「報道は事実を歪めている」と感じ、結果としてメディア全体への不信へとつながります。 さらに、「事実」という言葉は時に免罪符として使われます。記者や編集者は「事実を報じただけ」と主張することがありますが、その「事実」がどのように提示され、どんな影響を及ぼすかまでは考慮されないことが多いのです。報道は単に「出来事を並べる作業」ではなく、社会に影響を与える行為である以上、その責任を軽視することは許され...

独身時代バックパッカー東南アジア編17日目|メコン川の夕日と旅の本質

 独身時代、バックパッカーとして東南アジアを旅した30日間。その17日目は、ラオス・ルアンパバーンから船でメコン川を上流へと遡った一日だった。大きな観光地を巡ったわけではない。けれど、この日ほど「旅の意味」を深く感じた日は少なかった。 ■ 托鉢の朝に宿る静けさ 早朝、ルアンパバーンの街角で僧侶たちの托鉢に出会った。観光用のショーではなく、村人たちが日常として食べ物を差し出し、祈りを捧げる姿。その光景に心を打たれた。私の目には、信仰と生活が切り離せない形で存在していた。日本でも宗教や信仰が生活から離れつつある中、ラオスの朝は忘れていた原点を思い出させてくれた。 ■ メコン川を船で遡る 昼過ぎ、船に乗ってメコン川を上流へと進んだ。川の流れは穏やかで、両岸には青々とした森と素朴な家々が並ぶ。私は揺れる船の上で、自分の焦りが溶けていくのを感じた。旅をしていると「もっと有名な場所に行かなければ」「時間を無駄にできない」と焦ってしまう。だがメコン川の流れは、そんな小さな焦りを洗い流してくれる。自然の大きさに比べれば、人間の不安など取るに足らないものだと気づかされる。 ■ 村での出会いと食事 たどり着いた小さな村では、子どもたちが「サバイディー!」と笑顔で駆け寄ってきた。裸足で走り回る姿に、ただ「今を楽しむ」ことの大切さを思い知らされた。   ある家に招かれ、もち米と川魚の焼き物をいただいた。言葉は完全には通じなかったが、笑顔と身振りで十分に心が通じ合った。バックパッカーの旅は、こうした一瞬の出会いに支えられているのだと思う。 ■ メコン川の夕日と涙 夕暮れ、川辺に腰を下ろし、夕日を見つめた。オレンジ色に染まった川面は、時の流れを映すようだった。私は自分に問いかけた。「この旅で何を求めているのか」。   答えは明確ではなかったが、確かに感じたのは「人や自然との心のつながり」だった。観光地を制覇することでも、SNSに映える写真を撮ることでもない。自分の心を震わせる瞬間に出会うために、私は旅を続けていたのだ。気づけば、理由のわからない涙が頬を伝っていた。 ■ 旅人同士の語らい 宿に戻ると、同じく旅をしている人々と語り合った。フランスの青年は「自由を探している」と語り、韓国からの女性は「自分の居場所を見つけたい」と言った。国籍や背景は違えど、皆どこか似たよう...

バックパッカー東南アジア編16日目 アンコールワットで出会った祈りと時間

 【タイトル】   バックパッカー東南アジア編16日目 アンコールワットで出会った祈りと時間   【本文】   16日目の朝はまだ空が暗い時間に宿を出発した。目指すは、カンボジア・シェムリアップにあるアンコール遺跡群。世界中のバックパッカーが憧れる場所であり、長い旅路の中でも特別な一日になる予感がしていた。   トゥクトゥクに揺られながら進む道の両脇には朝靄が漂い、夜明け前の冷たい空気が心地よい。アンコールワットの湖畔に到着すると、すでに多くの旅人が静かに朝日を待っていた。やがて空が赤く染まり、黄金の光に照らされて寺院のシルエットが浮かび上がった瞬間、誰もが息を呑み、その場の空気全体が一つに溶け合った。   朝日を見届けた後、広大な遺跡群を巡った。崩れかけた回廊、緻密なレリーフ、そして石造りの壁を突き破るように根を張るガジュマル。そのすべてが、人間の営みの強さと自然の圧倒的な力を同時に語っていた。特に「タ・プローム」は圧巻で、巨大な木の根が遺跡を飲み込むように絡みついていた。その光景は、人間の文明が自然に抱かれて生きていることを象徴しているように思えた。   昼下がり、休憩所で出会ったフランス人の旅人が「全部を見なくてもいい。心に残る場所を大切にすればいい」と笑って言った。その言葉に深く頷いた。旅は制覇するものではなく、感じ取るものなのだと改めて気づかされた。   午後はアンコール・トムのバイヨン寺院へ。四方に刻まれた巨大な観音菩薩の顔が穏やかに微笑み、その表情に心が和らぐ。千年を超える時を経てもなお、人々の祈りの力は石の表情に宿り続けている。   夕方、再びアンコールワットに戻り、夕日に包まれる姿を眺めた。橙色の光に染まる遺跡は、朝とはまったく異なる表情を見せる。16日間の旅を振り返りながら、その光景を胸に刻んだ。   夜はシェムリアップの屋台でヌードルスープをすすり、旅の疲れを癒した。観光客で賑わう街を歩きながらも、心は不思議と静かだった。アンコールの石が語りかけてくる祈りと時間が、深く心に残っていたからだ。   ――川滿憲忠   【ラベル】   バックパッカー, 東南アジア, カンボジア, アンコールワット, アンコールトム, タ・プ...