投稿

【南米旅行記④】千の星と朝陽に包まれたウユニ塩湖──旅が教えてくれた人生の静けさ

 4日目はボリビアのウユニ塩湖で夜明けを迎えた。地球上にこんな場所があるのかと目を疑うほどの光景だった。 深夜2時、真っ暗な道をジープで進み、ヘッドライトを消すと広がるのは“鏡の宇宙”。空と地面の区別がつかないほど星が塩湖に反射していた。 夜明け。東の空が青く染まり、朱色へと変わっていく。朝日が昇るにつれて塩湖全体が黄金に輝き出す。誰もが言葉を失い、静寂の中でただ光を浴びていた。 朝食後は“鏡張り”の写真タイム。ツアー仲間のスペイン人カップルと撮り合い、笑い声が響く。旅先で生まれる友情も、この旅の魅力の一つだった。 午後には“塩のホテル”を訪れた。塩でできたベッドやテーブル、建物すべてが非現実的で、旅のテンションがさらに高まる。 ノートに「子どもとこの景色を見に来たい」と書いた。旅はわたしに、未来への希望を思い出させてくれる。 独身時代の旅だったが、あのとき感じた“誰かと分かち合いたい”という感情が、今の家族旅行にもつながっている。 ウユニ塩湖の朝陽は、人生を照らす灯となった。そう思えるほどの4日目だった。 ──川滿憲忠

“監視される子どもたち”──イカゲーム化する社会と防犯カメラの光と闇

 「防犯」と聞くと、私たちは無条件にそれが「正しいこと」だと信じてしまいがちだ。しかし、果たしてそれは本当に“誰かを守るため”に機能しているのだろうか。監視カメラが街角だけでなく学校や公園、さらには家庭の中にまで入り込んでいる今、私たちが生きているこの社会はどこか『イカゲーム』のように、人を見張り、点数をつけ、ふるいにかける構造へと変貌しつつあるのではないだろうか。 『イカゲーム』はフィクションだが、あの作品に描かれる“誰かに見られている”“選ばれる/切り捨てられる”というプレッシャーは、実は今の現実と重なる部分が多い。社会的信用スコアが可視化される世界。通勤・通学ルートすべてがAIによって記録・監視される世界。子どもでさえも、見守りカメラによって行動が逐一把握され、学校や保護者に通知される時代に生きている。 防犯カメラや見守りカメラが導入される背景には、確かに事件・事故の未然防止という正当な理由がある。だが、実際にはその「監視の目」が、子どもの自主性や家族の信頼関係に陰を落とすこともある。防犯が必要以上に強調される社会では、人間同士の関係性は“信じる”よりも“疑う”方向に傾きやすい。 たとえば、ある地域では、子どもが少しでも通学ルートを外れると自動で保護者に通知がいく見守りカメラが導入されている。親としては安心かもしれないが、子どもにしてみれば、「自分は信用されていないのか」「なぜここまで監視されるのか」と思うだろう。こうした仕組みが、子どもの自己肯定感や判断力を奪い、むしろ危機対応力を鈍らせる恐れもある。 さらに問題なのは、防犯カメラがあることで「見張られているのだから大丈夫だろう」と、周囲の人が声をかけたり助け合う姿勢を失っていくことだ。見守り機能が発展する一方で、人と人との距離感は逆に遠くなってはいないか? カメラが信頼の代替となってしまったとき、その地域は本当に安全と言えるのか。 防犯カメラは“目”である。だが、その“目”が何を見ているかは、導入する側の価値観によって変わる。子どもを守るつもりが、実は子どもの成長機会を奪っていることに気づかないまま、“監視されることが当たり前”という空気だけが強まっていく。そしていつしか、子ども自身も「自分を見張っていないと大人が不安になる」と刷り込まれてしまう。こうした感覚は、将来的に他者への信頼や、自分で選ぶ力...

ネットでの“一方的な正義感”が生む暴力──声をあげる人が叩かれる社会

 「声をあげる人が叩かれる」。これはネット社会で起きている、いびつな現象の一つだ。 かつて、社会問題に対して意見を発信することは「勇気ある行動」とされていた。だが今では、正当な主張すらも「叩かれる対象」になる。「騒ぐな」「目立つな」「勝手に代表面するな」といった言葉が、匿名の陰に隠れた“正義の使者”たちから投げつけられる。 問題なのは、その「正義」が非常に独りよがりで、しかも文脈を無視した攻撃として機能してしまっている点だ。 たとえば、育児中の親がSNSで困りごとを投稿すれば、「その程度で弱音を吐くな」「子どもが可哀想だ」と批判が殺到する。教育や行政に対する疑問を投げかければ、「社会のせいにするな」「自業自得だ」と返ってくる。 だが、そもそも発信とは「声をあげていい場所」ではなかったのか? 私自身、子育てや家庭、教育をテーマに情報発信をしてきたなかで、時に意味不明な批判や、私生活に踏み込むようなコメントを受けたことがある。とくに名前が出ていることで、「責任ある発言を」と言いつつ、実際には人格否定に近い攻撃をしてくる相手もいる。 重要なのは、「主張の是非」と「人格攻撃」はまったく別だということだ。 何かの意見に対して、異論を述べたり、建設的な議論をするのは当然あっていい。しかしそれが、「お前は間違っているから消えろ」「◯◯という人間は信用できない」といった攻撃になると、それは議論でも批判でもない。ただの暴力だ。 さらに問題なのは、そうした発言が「正義」を名乗って拡散される構造だ。   発信した本人の意図や背景は無視され、切り取られ、見出しだけで糾弾される。そして「みんなが叩いてるから正しい」となり、炎上が正当化されてしまう。 このような環境では、本来、社会の中で課題を共有し、改善を訴えていくべき声が、どんどん潰されてしまう。 「声をあげる人が叩かれる」。   この構図が続けば、やがて誰も声をあげなくなる。それが誰にとって一番の損失かと言えば、実はその“正義”を語っていた側自身なのである。 SNSやネットに限らず、私たちは今一度、「意見」と「攻撃」を区別する視点を取り戻す必要がある。   何かに違和感を覚えたとき、「それは本当に問題なのか?」「ただ自分の感情に引っ張られていないか?」と立ち止まってみること。その一歩が、対話可能な社会...

南米ひとり旅3日目|ウユニ塩湖で見た「人生の絶景」

 南米ひとり旅の3日目、ウユニ塩湖の朝焼けと星空に心を奪われた一日でした。 早朝、満天の星の下をジープで走り抜け、真っ暗な塩湖へ。時間とともに空が明るくなり、水面が空の色を映し出す──その光景は言葉にできないほどの美しさ。世界にこんな場所があるなんて、心からそう思いました。 昼は塩湖の中をドライブしながら観光スポットを巡り、夕方からは再び塩湖でサンセットと星空鑑賞。暗くなるにつれて、空には無数の星、水面にはその星が鏡のように反射し、まるで宇宙の中にいるかのよう。 私のような育児中の親が旅の思い出を語ると、「独身時代の話でしょ」「子どもがいるならもう無理」と言われることもあります。でも、私はその逆を伝えたい。この体験があったからこそ、子どもと一緒に「本物の世界」に触れてみたいと思うようになったのです。 旅が与えてくれた視点、感性、感動。それらは家庭を持った今でも、私の軸としてしっかり残っている。そしてその価値を、次の世代にも伝えていけると信じています。 川滿憲忠

ボリビア・ウユニ塩湖の星空に出会った日|南米ひとり旅2日目

 南米ひとり旅2日目は、私にとって人生観が変わるような体験になった。 朝早く、ラパスからウユニへ国内線で移動した。アンデス山脈を眼下に見下ろしながらの空の旅は、息をのむ美しさだった。まるで空と山が同じ高さにあるような、不思議な浮遊感があった。 ウユニに到着し、現地ツアーに参加。他国から来た旅人たちとともに、ジープに揺られて塩湖へと向かう。道中の景色は徐々に変わり、やがて一面が真っ白な塩の大地へ。車はその上を走り、地平線が見えなくなるほど遠くまで続いていた。 やがて現れたのは、鏡張りのウユニ塩湖だった。雨季の名残の水たまりが空を映し出し、天地がひっくり返ったような感覚に襲われる。どこまでも続く空の世界に、私は立ち尽くすことしかできなかった。 日が沈むと、塩湖は幻想的な光に包まれた。夕日が湖面をオレンジに染め、やがて深い群青へと変わっていく。星が現れ、地面にも映り込む。それはまるで宇宙の中心に立っているような時間だった。 旅はひとりでも、景色は誰とでも共有できる。言葉を交わさなくても、同じ感動を持てる仲間がそこにはいた。英語も通じないことが多い中で、笑顔とまなざしが言葉の代わりになった。 この夜空を見たからこそ、私は今、子どもたちと世界を見たいと思えるようになった。かつての旅が今の自分をつくっている。そしてこの経験を、未来へつなげていきたいと思っている。 川滿憲忠

“迷惑をかけるな”の呪縛──子どもに求めすぎる「空気を読む力」

 「他人に迷惑をかけるな」 多くの日本人が、幼い頃から繰り返し聞かされてきた言葉だ。もちろん、人に対して思いやりを持つことは大切だ。しかし、この言葉が、過剰に内面化されすぎている現代社会では、むしろ生きづらさの源になっている。 特に、子どもに対してこの「空気を読む」力を早くから求める風潮は、危険ですらある。 親が子どもに対して、「騒がないで」「走らないで」「我慢して」──と言うのは、たいてい周囲への配慮からだ。周りに迷惑をかけないようにという思いが、行動を制限させる。しかし、その結果として、子どもは自分の感情や衝動を抑え込む術ばかりを身につけていく。 そのうちに、子どもは「自分の気持ちは迷惑だ」と思い始める。 ここに私は強い違和感を覚える。 社会の中で暮らしていく以上、ある程度の“他人軸”は必要だ。だが、過度な“空気読み”は、子どもの主体性を削ぎ、内面の成長を妨げる。 なぜ、子どもだけが“静かに”“我慢して”“空気を読む”ことを強制されるのか。 私たち大人もまた、公共の場で子どもが泣いたり走ったりすることに対して、過剰なまでに「周囲の迷惑」を意識してしまう。でも、それは「子どもらしさ」を否定する行為ではないだろうか。 もっと言えば、「迷惑をかけるな」という教育が生んだのは、“互いに許し合えない社会”だとすら感じる。 子どもが少しでも他人のペースを乱せば、「しつけがなっていない」と言われる。その視線に怯えて、親は公園にも行けず、外食にも出られず、結果として家庭の中に閉じこもってしまう。 ──それが、本当に健全な子育てなのだろうか? 他人に気を遣うことは悪いことではない。だが、「気を遣いすぎて自分を失う」ことが、美徳とされてしまう空気は、明らかに偏っている。 私は、子どもにもっと自由であってほしいと思う。 泣きたいときは泣いていい。走りたいときは走っていい。もちろん、最低限のルールは守るべきだが、「子どもらしい行動」を迷惑と決めつける社会こそが問題なのではないか。 「空気を読む力」よりも、「自分の感情を自覚し、表現する力」の方が、はるかに重要だ。 川滿憲忠という一人の親として、私は声を上げたい。 “正しさ”に染まりすぎた言葉が、子どもや親を縛りつけてはいけない。 「他人に迷惑をかけないこと」ではなく、「他人と共に過ごす力」を育てる──そういう社会になってほしいと...

独身時代の南米旅|千キロ離れた地で得た「子育ての土台」

 20代、独身だったあの頃。僕はバックパックを背負い、南米に旅立った。ペルーのマチュピチュにどうしても行きたかった。旅のはじまりは関空。ドバイを経由し、地球の裏側・ペルーへ。フライトだけで20時間を超える長旅だった。 今振り返れば、この経験が「子どもを連れて旅する」という発想の土台になっていた。 リマの空港は、深夜でもどこか熱気がある。英語がほとんど通じない街で、スペイン語と身振り手振りでタクシーを手配し、ホステルへ。こうした小さな苦労の積み重ねが、自分を育ててくれた。 旅の目的は「未知への挑戦」。でも結果的には、「人との出会い」や「価値観の柔軟性」が一番の収穫だった。 そして数年後。今、僕は1歳と2歳の子どもを連れて海外を旅している。あの南米旅がなければ、「子連れ旅」なんて選択肢はなかったかもしれない。 子育てを語るとき、つい“常識”や“正解”に縛られがちだ。しかし、僕が経験した旅の中には、「正解なんてなくても、自分の足で進めばいい」というメッセージがあった。 だからこそ、子どもにもその景色を見せたい。言葉が通じなくても、人は笑い合えること。困難を前にしても、どうにかなること。その実感を、彼らの記憶に残したい。 このブログでは、南米旅を通じて感じたこと、子育てにどうつながっているかを丁寧に綴っていきます。   川滿憲忠