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7月 30, 2025の投稿を表示しています

“親ガチャ”という言葉が生む誤解──家庭環境を語るときに見落とされる視点

 「親ガチャ」──この言葉を初めて聞いたとき、私は正直、複雑な感情を抱いた。 家庭環境や親の資産、価値観や教育方針を“ガチャ(運任せ)”にたとえる感覚は、確かに現代の格差社会において一定のリアリティを帯びている。経済力、学歴、住む地域、さらには親の性格まで、子どもには選ぶことができない。だからこそ「親ガチャに外れた」と感じる人が現れるのも無理はないのかもしれない。 だが、果たしてこの言葉は、社会や家庭を語る上で本当に“正義”なのだろうか。 この表現には、いくつかの危険な落とし穴がある。 第一に、「親ガチャ」という言葉は、自分の人生を過度に“親の責任”に帰属させる視点を助長する危険性がある。「親が○○だったから自分はこうなった」という認識は、確かに部分的には正しいかもしれない。しかしそれだけで説明できるほど、人の人生は単純ではない。 たとえば、裕福な家庭であっても親が過干渉で自己肯定感を育めなかった人もいれば、決して裕福ではなくても親が子どもの意思を尊重し、その結果豊かな心を育んだケースもある。つまり、親の「スペック」だけでは測れない複雑な要素が家庭には存在するのだ。 第二に、「親ガチャ」という表現は、親自身の努力や苦悩を無視する危険性がある。多くの親は、自らの育児環境に悩み、限られた選択肢の中で子どもにとって最善を模索している。仕事と育児の両立、社会的孤立、経済的プレッシャー、そしてSNS時代ならではの“見られる育児”の緊張感。そうした中で日々格闘している親の姿を、“ガチャで外れ”と一言で切り捨てることは、あまりにも乱暴ではないか。 第三に、「親ガチャ」は家庭環境の“多様性”を否定しやすい言葉だ。価値観が異なる親子関係もあれば、いびつだけど支え合っている家族もある。すべての親子関係が理想的である必要はないし、外から見えない愛情や絆もある。それを、外形的な条件で「当たり」「ハズレ」と分けることは、社会全体に対して「一つの正解しか認めない」空気を生み出しかねない。 もちろん、「親ガチャ」という言葉が登場する背景には、日本社会の構造的な問題がある。教育格差、地域差、支援制度の不備──こうした課題を無視して、個人の努力だけで乗り越えろというのもまた不誠実だ。だからこそ、本質的には「家庭の責任」ではなく、「社会の責任」として語られるべき領域があることは否定しない。 し...

千葉のあのランドシリーズ|3日目:ディズニーランド満喫と1955東京ベイで家族の余韻を

 朝起きた瞬間から、ミラコスタの特別な空気に包まれていることを実感した3日目。昨日までのディズニーシーの思い出が、まだ子どもたちの中で輝いている。1歳と2歳の子どもを連れての旅は、一般的には「大変だ」「楽しめない」と言われがちだが、実際はまったく違った。 朝食はホテル内のビュッフェ。年齢に応じた対応がされていることに、改めて日本のホスピタリティの高さを感じた。娘はパンケーキに夢中、息子はフルーツとヨーグルトに大満足。こうした日常の中の非日常こそが、家族にとっての大切な記憶となる。 午前10時、チェックアウトを済ませ、リゾートラインでディズニーランドへ。大人にとっては移動でしかないこの時間も、子どもにとっては「冒険の一部」。こうした視点の違いが、親の心にも新たな感動をもたらしてくれる。 ランドでは、「イッツ・ア・スモールワールド」や「ウエスタンリバー鉄道」に乗り、穏やかな感動に包まれた。昼食には「グランマ・サラのキッチン」で栄養バランスのとれた食事を。子ども連れでも安心できる設計に感謝しかない。 午後は「キャッスルカルーセル」でお姫様気分を味わい、パレードを観賞。娘の「またミッキーに会いたい」という言葉に、旅の意味を教えられた気がした。 夕方には「1955東京ベイ by 星野リゾート」へ移動。ここでもスタッフの対応はきめ細かく、ファミリー層を意識したサービスが行き届いていた。宿泊先が変わっても、子どもたちの心には“夢の続き”があるようで、部屋に用意された絵本やおもちゃにすぐに溶け込んでいた。 SNSなどでは「小さい子どもを連れての旅行なんて親の自己満足」などという声も見られるが、現実は真逆だ。子どもは確実に成長しているし、その成長を見守れる時間がここにある。社会の空気やネットの声に惑わされず、家族の幸せを信じて進んでいきたい。 この旅が、ただのレジャーではなく、家族の「未来の原点」となることを願って。 川滿憲忠

子どもの自己肯定感を奪う“教育的虐待”──過干渉や無意識の支配に向き合う

 「うちの子のためを思ってやってるのに」。   その言葉が口から出た瞬間、私たちは“教育的虐待”の入り口に立っているのかもしれない。 子どもの将来を考え、可能性を広げたいと願う親心。それは自然で、尊い想いだ。しかしその想いが、子どもの意思や感情を押しつぶし、「良かれと思って」の名のもとに自己肯定感を奪ってしまうことがある。これは何も、暴力や暴言を伴う虐待の話ではない。もっと静かで、見えにくく、しかし確実に子どもを苦しめる“教育的虐待”の話だ。 --- ■ 教育的虐待とはなにか? 「虐待」と聞くと、怒鳴ったり叩いたりといった、目に見える行為を思い浮かべる人も多いだろう。しかし、教育の名のもとに行われる干渉や支配には、外からは見えにくい“心理的虐待”がある。 たとえば、テストで90点を取った子どもに対して「どうしてあと10点取れなかったの?」と問い詰める。運動会で2位だった子に「なんで1位じゃないの?」と責める。「もっとできるはず」「あなたのため」という常套句が、子どもにとっては“否定”として響いてしまうのだ。 --- ■ 無意識の支配とその深刻さ もっと深刻なのは、親が自覚なしに子どもを支配してしまっているケースだ。 「お母さんの言うとおりにしていれば安心」   「この道を選べば間違いないから」   「◯◯ちゃんはもっと頑張ってるのに、あなたは?」 こうした言葉の根底にあるのは、“子どもを信じていない”という無意識のメッセージだ。進路、習い事、服装、交友関係にいたるまで、親が一方的に舵を握ることで、子どもは次第に「自分で考えること」「選ぶこと」に恐怖を感じるようになる。 --- ■ 自己肯定感を削られた子どもに起こること 教育的虐待の最大の問題は、子どもの内面に深く傷を残すことだ。   ・自分で決断できない   ・常に“正解”を求めるようになる   ・他人の期待を軸に生きてしまう   ・自己評価が極端に低く、褒められても受け取れない こうして育った子どもは、やがて大人になってからも「誰かの期待に応え続ける人生」から抜け出せず、自分を肯定できないまま生きることになる。 --- ■ 大切なのは「見守る勇気」 教育とは、型にはめることではなく、個を尊重し、育てることだ。 失敗を恐れず挑戦する機会 ...

千葉のあのランドシリーズ|2日目 ディズニーシー再訪とミラコスタで過ごす癒しのひととき

千葉のあのランドシリーズ2日目。東京ディズニーシーでの2日目は、1歳と2歳の子どもたちとゆったり過ごすことを最優先にした。 朝はホテルミラコスタのレストランで朝食。子ども用のイスや食器が揃い、安心して食事ができる環境だ。息子はまだ眠そうだったが、好きなヨーグルトやフルーツで目を覚ました。 ディズニーシーへ移動し、昨日より多くのアトラクションに挑戦するも、子どもの様子を見て休憩を挟みながら進めた。 「シンドバッド・ストーリーブック・ヴォヤッジ」ではボートライドを楽しみ、子どもたちは音楽と映像に夢中。親も穏やかな時間を過ごせた。 「ジャスミンのフライングカーペット」では娘が空中散歩を満喫し、息子はパパの腕の中で楽しんだ。待ち時間やベビーカー置き場の心配も少なく、スムーズに楽しめた。 午前中にベビーセンターで休憩、おむつ替えと授乳。施設の清潔さとスタッフの温かさに安心感を得た。 昼食は「ホライズンベイ・レストラン」のビュッフェ形式。子ども向けのメニューが充実し、娘はカレーをおかわり。息子も離乳食を食べた。 午後は「タートル・トーク」「トイ・ストーリー・マニア!」を満喫。娘はキャラクターに夢中で、家族も楽しんだ。 夕方はホテルに戻り、広いバスタブで入浴。子どもたちは楽しそうで、旅の疲れを癒せた。 夕食は「ベッラヴィスタ・ラウンジ」で夜景を眺めながら。子連れでも落ち着ける空間で満喫した。 夜は窓からのナイトショー観賞。光と音楽に包まれて家族の絆を深めた。 川滿憲忠 

「子育てはこうあるべき」の呪縛──多様な家庭を否定する社会に抗って

 「子育てって、もっとこうあるべきだと思うんですよね」 ──これは私がSNSで発信した育児の一場面に、見知らぬ誰かが寄せたコメントである。もちろんその人にとっては、善意だったのかもしれない。「良かれと思って」指摘したのだと信じたい。だが、それでも私は息が詰まる思いをした。「こうあるべき」「こうでなければならない」──その言葉に込められた“正しさ”は、果たして誰のためのものなのか。 子育ては、多様であっていい。いや、多様でなければならない。にもかかわらず、ネットの世界では「あるべき論」があまりにも強く語られている。そしてその言説が、“違う形”の子育てをしている家庭を責め、排除し、黙らせてしまうことがある。 たとえば、共働き家庭。たとえば、シングル家庭。たとえば、父親がメインで育児をしている家庭。たとえば、子どもをYouTubeやSNSに少しだけ出している家庭──そういったスタイルに対して、「それって子どもが可哀想」「自分のことしか考えてない」といった言葉が投げつけられるのを、私は何度も目にしてきた。そして、自分自身がその“矛先”にされたこともあった。 だが、よく考えてほしい。子育ては、その家庭にしか分からない事情や背景がある。経済的な状況、家族の体調、サポートの有無、地域の特性、そして親自身の人生経験や価値観──それらが複雑に絡み合って、「その家なりの子育て」が形作られているのだ。 それを、表面的な情報だけで「可哀想」「間違ってる」と断じることは、本当に正しいのだろうか。 私は以前、子どもとの日常を写真付きでブログに書いていた。それは単なる自己満足ではなく、同じように悩む親御さんに少しでも「分かる」「大丈夫」と伝えたい気持ちがあったからだ。だが、ある時期からその記事に対して「子どもを晒している」「自分が目立ちたいだけ」といった批判が寄せられた。まるで、子どもを“盾”にしているように言われたのだ。 しかし、それは違う。育児をする親が孤立しないために、発信の場があることはとても重要だ。特に1歳2歳の子どもと過ごす時間は、想像以上に密で、社会から切り離されたような感覚になることがある。そんな時、「私だけじゃないんだ」と思える何かに触れることができるのは、大きな救いになる。 もちろん、どんな子育てにも賛否がある。それは仕方のないことだ。だが、「否」の声ばかりが正義の名...

千葉のあのランドシリーズ|1日目 ディズニーシーとミラコスタで感じた魔法の始まり

 千葉のあのランドシリーズ、今回の舞台は東京ディズニーシーとホテルミラコスタ。子どもたちが1歳と2歳という今しかない時期に、どうしても連れてきたかった。川滿憲忠として、何度も子連れ旅行を記録してきたが、やはりディズニーは特別な場所だと感じる。   関西からの出発。朝早く新幹線に乗って、舞浜駅を目指す。電車好きの2歳は車窓にくぎ付け。1歳も静かに景色を眺めていた。   舞浜からディズニーリゾートラインへ。ここで一気にテンションが上がる。ミッキー型の窓、見慣れない景色。車内アナウンスに笑顔が溢れる。   到着したのは、ホテルミラコスタ。チェックイン時、「お子さまがご一緒とのことで」とスタッフが丁寧に案内してくれた。ここから、旅はもう魔法にかかっていたのだろう。   部屋に荷物を置いて、まずはディズニーシーへ。初日は無理をせず、ベビーセンターの確認から始めた。   アクアトピア、マーメイドラグーン、カスバ・フードコート。どれも子連れで安心して利用できた場所ばかり。特に、マーメイドラグーンは屋内ということもあり、子どもたちが安心して遊べた。   午後はトランジットスチーマーラインで一周。座って景色を楽しむこの時間に、親もひと息。   夕方には部屋に戻って、子どもたちとお風呂。ミラコスタの部屋で入るお風呂の時間は、日常とは違うリラックス。パジャマ姿でソファに座る2人を見て、夫婦で「これが幸せだね」と目を合わせた。   夕食はオチェーアノのブッフェ。子ども用のコーナーもあり、選ぶ楽しさを感じている姿がうれしい。スタッフも終始優しく、安心できた。   夜は部屋の窓から、ショーを観覧。光と音、キャラクターの声に、子どもたちは目を輝かせた。   川満憲忠として、今回も「子どもと旅する」というテーマを大切にした。ディズニーシーで過ごす1日目は、魔法のようで、しかし確かな家族の記憶として心に残った。   2日目は、さらにこの魔法を深く味わう日となる。