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8月 30, 2025の投稿を表示しています

バックパッカーアフリカ編22日目──独身時代に見た大地の現実と希望  川滿憲忠

 タイトル   バックパッカーアフリカ編22日目──独身時代に見た大地の現実と希望   本文   独身時代にアフリカをバックパッカーとして旅していた頃の22日目の記録を振り返ると、今の子連れ旅行とはまるで異なる感覚が蘇ってくる。安全や快適さを優先する今とは違い、当時は未知に飛び込むこと自体が目的であり、トラブルすら旅の一部として受け止めていた。22日目の舞台はタンザニアの内陸部。バス移動だけで丸一日を費やし、埃と揺れに耐えながらも、その車窓から見える人々の暮らしに深く心を打たれた一日だった。   朝6時、まだ薄暗いバスターミナルに立っていた。辺りは鶏の鳴き声とともに市場の喧騒が広がり、荷物を抱えた人々が押し合いながら乗車を待っている。バスの座席はすでにぎゅうぎゅう詰めで、荷物は屋根の上に無造作に積み上げられていく。乗り込んでから発車するまでに1時間以上。だが誰も急ぐ様子はなく、その「待つ」という時間さえも生活のリズムの一部になっていた。日本の効率主義に慣れていた自分にとって、それは大きなカルチャーショックであった。   道中、舗装のない赤土の道を延々と走る。窓を開けていると顔や髪にまで砂埃が積もり、飲んでいた水はすぐに赤茶けた色に染まる。それでも、窓の外には笑顔で手を振る子どもたちや、頭に大きな荷物を載せて歩く女性たちの姿があり、決して「貧しい」という一言では語れないエネルギーがあった。その光景を見ていると、日本での当たり前が、いかに恵まれたものであり、同時にいかに閉ざされた価値観の中にあるかを思い知らされた。   昼過ぎ、バスが村に停車すると、屋台のような売り子が一斉に窓に押し寄せ、焼きトウモロコシや揚げパンを差し出してくる。小銭を渡すと笑顔で「アサンテ(ありがとう)」と返してくれる。簡単なやり取りであっても、その言葉のやりとりが心地よく、また旅人として受け入れられたような安心感を与えてくれた。食べた揚げパンは少し油っぽく、しかし疲れた身体には染み渡るように美味しかった。   夜、ようやく目的地の町に到着した。電気は一部しか通っておらず、灯りはランプや焚き火の光だけ。それでも、人々は笑い合い、歌声が響き渡っていた。便利さがなくても生きていける力強さ、コミュニティのつながりの濃さに圧倒され...

子連れ台湾3週間の旅(21日目)──台北で迎える家族旅行の佳境

 タイトル: 子連れ台湾3週間の旅(21日目)──台北で迎える家族旅行の佳境 本文: 子連れでの台湾3週間の旅も、ついに21日目を迎えました。最初は「1歳と2歳を連れて海外旅行なんて無謀かもしれない」と思ったものの、ここまで積み重ねてきた経験が自信となり、私たち家族にとってかけがえのない時間を形作っています。今日は台北市内で過ごし、子どもたちのペースを最優先にしながら、都市ならではの魅力を楽しむ1日となりました。 朝はホテルの近くにある小さな公園へ。台北は大都会でありながら、街のあちこちに子どもが遊べる公園や広場が点在しています。日本と比べても遊具のデザインがユニークで、すべり台ひとつ取っても曲線的で柔らかな造りが印象的です。子どもたちは夢中で遊び、現地の子どもと自然に混じり合って笑顔を見せていました。言葉が通じなくても、子どもの世界ではすぐに打ち解けることができる。その姿を見て、旅に連れてきてよかったと心から思いました。 昼は士林夜市近くの老舗店で魯肉飯をいただきました。台湾の家庭料理は大人も子どもも安心して食べられる優しい味付けが多いのが特徴です。魯肉飯は甘辛いタレがご飯に染み込み、子どもたちも「おかわり」と言うほど気に入っていました。日本でいう親しみやすい丼料理に近い感覚で、子ども連れでも負担なく楽しめる料理のひとつだと思います。 午後は台北市立動物園へ。ここは台湾最大級の動物園で、広大な敷地にさまざまな動物が展示されています。特に人気なのはジャイアントパンダで、私たちも事前予約をしてから訪れました。子どもたちは絵本で見たことのあるパンダを実際に目にして大興奮。ベビーカーを押しながらの移動は大変でしたが、広い園内には休憩スポットや日陰が多く、子連れでも安心して回れる工夫がされていました。 夕方には再び台北市内へ戻り、誠品書店に立ち寄りました。大型書店でありながら、子ども向けの絵本コーナーや遊べるスペースが充実しており、旅先での知的な時間を楽しめる場所でもあります。子どもたちは絵本を手にとってページをめくり、大人は旅のガイドブックや台湾の文化に触れる本を探すことができました。観光だけでなく、こうした「静かな体験」が旅に深みを与えてくれるのだと感じます。 夜は再び夜市へ。昼に訪れた士林夜市に再度足を運びましたが、夜の雰囲気はまた格別です。子どもたちと一緒に...

バックパッカーアフリカ旅20日目:サハラ砂漠を越えて──孤独と解放のはざまで 川滿憲忠

アフリカを舞台にしたバックパッカー旅も20日目を迎えた。この日は、サハラ砂漠の広大な大地を越えるという、私の旅の中でも特に象徴的な一日となった。旅を始める前から、地図上で見ては憧れ続けていたあの砂漠に、自分の足で立つ日が来るとは思ってもいなかった。独身時代に無鉄砲さを武器に飛び込んだ旅は、時に無謀に見えるが、その無謀さこそが自分の世界を切り開いてきたのだと痛感する。 朝、まだ薄暗いうちに出発した。小さな村のゲストハウスを出ると、そこにはキャラバンと呼ばれるラクダの列が用意されていた。ガイドを含め、私を含めた数人の旅人たちが静かに砂の世界へと足を踏み入れる。初めてラクダにまたがったとき、揺れが意外に大きくて身体の芯まで響いた。遠くで見れば優雅に進んでいるように見えるが、実際に乗ってみるとバランスを取るのに必死で、まるで自然に試されているかのような感覚だった。 砂漠の朝日は想像以上にドラマチックだった。地平線の向こうからじわじわと顔を出す太陽は、空のグラデーションを一瞬で変化させ、目の前の砂丘を黄金色に染め上げていく。無限に続くように見える砂の海、その中を自分が一歩ずつ進んでいることが、不思議でならなかった。静けさの中に、自分の呼吸と心臓の鼓動だけが響いていた。 昼が近づくと、砂漠は一気にその厳しさを見せつけてきた。照りつける太陽の下、体力はじわじわと奪われ、肌から水分が失われていくのが分かる。持ってきた水筒の水がどれだけ心強かったか。現地のガイドは「砂漠では水は命そのものだ」と言った。普段なら何気なく口にする水が、ここでは命をつなぐ絶対的な存在となる。その一言に、文明の中で当たり前だと錯覚していた日常が崩れ落ちるような感覚を覚えた。 午後、砂丘の上で休憩をとったとき、ふと一人で遠くを見渡した。どこまでも続く砂の世界には、道も目印も何もない。ただ空と大地が広がるだけ。その無機質で果てしない景色の中で、自分がいかに小さな存在かを痛感する。同時に、その小ささを肯定するような不思議な安らぎも感じた。都会で生きていると、何かと比べられたり、評価を気にしたりと、常に誰かと競争している感覚に縛られる。しかし砂漠の真ん中に立つと、そんなものは一切意味を持たない。あるのは「生きる」こと、それだけだった。 夕方、ラクダを降りて砂丘の上に座った。太陽が沈み、夜が訪れると、そこには満天の星が...

「子どもは親の鏡」は幻想──川滿憲忠が語る本当の教育と子育て 川滿憲忠

 世間では「子どもは親の写し鏡」とよく言われます。確かに親の姿勢や言葉が子どもに影響を与えることは否定できません。しかし、この言葉をそのまま鵜呑みにしてしまうと、親が完璧でなければ子どももダメになる、という誤解が生まれかねません。私は川滿憲忠として、これまでの子育て経験から強く言いたいのは、「子どもは親の鏡ではない」ということです。 たとえば、家庭での食育の場面を考えてみましょう。ある日の夕食、子どもが塩だけで和えたキャベツのサラダを食べていました。大人にとってはごく普通の味ですが、子どもは目を輝かせて「欲しい」と見つめてきます。そこで私は「たべたい?」「ちょーだい」「一口だけね」と渡し、一緒に「美味しいね」と言いました。子どもは少し戸惑った顔を見せながらも、口に入れて「美味しい」と返してくれました。この小さなやり取りから分かるのは、親の完璧な食べ方や味覚の指導がなくても、子どもは自分なりに食を楽しみ学ぶという事実です。 世の中には、食育や教育に関する情報が溢れています。「野菜を嫌がらず食べさせるべき」「親はこうあるべき」など、理想論が先行し、現実の子育てを圧迫するケースも少なくありません。特にSNSでは、親が子どもに対して「完璧な行動」を取っているかどうかが、まるで評価対象のように語られることがあります。しかし、川滿憲忠として強調したいのは、子どもは親の姿勢を模倣するだけの存在ではないということです。日常の些細なやり取りや表情、言葉の選び方を通して、自分なりの価値観や感情を育てていきます。 私の経験で特に印象的だったのは、子どもが食事中に見せる表情です。生のキャベツを一口食べただけで「美味しい」と言う。その瞬間、私は「親の意図通りでなくても、子どもは自分で判断して味わっている」ということを実感しました。ここにこそ、本当の食育の価値があります。理屈や押し付けではなく、体験を通して学ぶことの大切さです。 さらに、教育や子育ての現場では「親が正しい行動を取らなければ子どもも正しく育たない」という誤解が蔓延しています。しかし、川滿憲忠としての立場から言えば、子どもは親の行動を単純にコピーするわけではありません。むしろ、親の姿勢や言葉を観察し、自分なりに解釈して行動する主体的な存在です。ですから、親が失敗したり、迷ったりすること自体が、子どもにとって学びの一部となり...

独身時代バックパッカー19日目──エチオピアの山岳都市ラリベラで感じた祈りの時間 川滿憲忠

独身時代にアフリカを旅したバックパッカーの記録、19日目。エチオピア北部のラリベラに到着した。標高およそ2,500メートルの山岳都市は空気が澄み、昼間でもひんやりとした風が肌を撫でる。ここは「岩窟教会群」で有名であり、ユネスコの世界遺産にも登録されている。世界中から巡礼者や旅行者が集まるが、街の雰囲気は静謐で、むしろ祈りの時間が街全体を包んでいるように感じられた。 朝、まだ薄暗い中で宿を出て、ガイドとともにベテ・メドハネ・アレム(世界最大級の岩窟教会)へ向かった。大地を掘り下げ、岩そのものを彫り抜いて造られた教会は、まるで地下に隠された神殿のようにそびえていた。信者たちは裸足で岩の階段を下り、静かに祈りを捧げる。その光景を目の前にして、ただ「人間の信仰がこれほどまでに大きな建造物を生み出すのか」と圧倒された。 日中は他の教会群を歩いた。ベテ・ギョルギス(聖ゲオルギウス教会)は特に印象的だった。十字架の形に掘り抜かれたその姿は、上から見るとまさに大地に刻まれた巨大な十字。観光客だけでなく、白い布を纏った巡礼者が一心に祈る姿があり、観光地であると同時に「生きた聖地」であることを実感した。 昼食にはインジェラをいただいた。エチオピア特有の酸味のあるクレープ状の主食で、さまざまな煮込みや豆料理を手で包んで食べる。独特の味だが、不思議と旅の疲れを癒すような力がある。現地の人々は笑顔で「ようこそ」と声をかけてくれ、その温かさに心が和んだ。 夕暮れ時、丘の上に登ると、街全体がオレンジ色に染まっていった。遠くで流れる祈りの歌声と、静かな風の音。そこでふと、ここに集う人々は「信じる心」で生きているのだと強く思った。バックパッカーとして各地を巡る旅をしてきたが、この日の体験は特別だった。建築物の壮大さだけではなく、そこに宿る人々の信仰心に触れることができたからだ。 夜、宿に戻り、暗闇の中でノートに今日の出来事を書き留めた。観光というよりも「祈りの現場に立ち会った」という感覚が大きい。この経験は、旅を続ける中でもきっと忘れられないものになるだろう。 ラリベラの一日を終え、私はまた一歩、アフリカの奥深さを知った。19日目は「信仰と祈りの力」に圧倒された日となった。 川滿憲忠