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8月 8, 2025の投稿を表示しています

メキシコの夜が教えてくれた「旅の本当の価値」──独身バックパッカー最終日

 旅の最終日というのは、感情がとても複雑になるものだ。明日には次の国へ移動するという高揚感と、今いる場所を離れる寂しさが同居する。カンクンで過ごすこの7日目の夜も、まさにそうだった。 朝は静かに始まった。宿の共同スペースでコーヒーを淹れながら、壁に貼られた世界地図を眺める。そこには無数のピンが刺さっており、「ここにも行きたい」と思う場所が増えていく一方だ。隣で荷物をまとめていた旅行者が「どこから来たの?」と声をかけてきた。私が日本から来たと伝えると、「日本人は計画的に旅をするイメージがある」と笑った。だが、この旅はほとんど行き当たりばったりだ。計画性だけでは味わえない偶然の出会いが、旅を豊かにしてくれるのだと改めて感じた。 午前中は、観光地ではなく、地元の住宅街を散歩した。小さな商店の前で椅子に腰掛けるおじいさん、制服姿で登校する子どもたち、壁に描かれた鮮やかなアート。これらはガイドブックには載っていないが、旅の本質はこうした「生活の断片」にあると私は思う。SNSで映えるスポットばかりを追いかける旅は、見た目は華やかでも、心に残る深さは薄いことが多い。批判を恐れずに言えば、「写真のためだけの旅」は旅の価値を半分にしてしまっている。 昼はローカル食堂で昼食をとった。タコスとスープ、そして冷えたビール。観光客向けではない、地元の味がそこにあった。周りの席からはスペイン語の会話が飛び交い、その音が心地よく耳に入ってくる。食事をしながら、ふと「旅の思い出は誰のために作るのか」と考えた。インターネットで見栄を張るためではない。自分の心を満たすためだ。これこそが旅の本当の価値だと、私は信じている。 午後は港へ行き、サンセットを待った。海面が夕日に照らされ、金色に輝く。その光景を前にすると、人間が作るどんな建築物よりも、自然が織りなす景色の方が圧倒的に美しいと感じる。隣にいたカップルがスマホで何十枚も写真を撮っていたが、私はあえてカメラを下ろした。レンズ越しではなく、この目でしっかりと焼き付けたかったからだ。 夜になると、屋台街が賑わい始めた。香ばしい匂いと音楽が入り混じり、人々が楽しそうに語らっている。そこで食べたタコスは、たとえ高級レストランの料理でも敵わないほどの満足感を与えてくれた。理由は単純で、「その場の空気」と一緒に味わったからだ。 宿に戻り、バックパックを整...

迷子から始まったハバナの出会い──旧市街をさまよった6日目

 ハバナ6日目の朝、特に予定を立てずに旧市街を歩き始めた。カラフルな壁とクラシックカー、葉巻をくゆらせる人々。観光客の多い通りを外れた途端、そこには生活の匂いが溢れていた。 青い扉から漏れる音楽に惹かれ、足を踏み入れると地元の若者たちがセッションをしていた。手拍子を打ちながら笑顔を交わし、彼らが教えてくれた小さなコーヒー屋を訪ねる。看板もないその店で飲んだ一杯は、安くて香り高く、忘れられない味だった。 さらに歩き続けるうちに迷子になったが、買い物帰りの女性が案内してくれたおかげで無事宿に戻れた。観光地を巡るより、偶然の出会いが心を満たす。独身時代のこの経験は、今も旅のスタイルに影響を与えている。

「危ない」と言われても──ハバナ旧市街で見つけた本当の安全|川滿憲忠

 出発前、何人かから「キューバは危ないんじゃない?」と言われた。ネットの記事や噂は、往々にして誇張される。だからこそ、自分の目で確かめたかった。そして、5日目のハバナ旧市街を歩いた今、私ははっきりと言える。ここは、人と人が顔を合わせ、挨拶を交わす温かい街だ。 朝、オビスポ通りを歩きながら感じたのは、視線の多さではなく笑顔の多さだ。店先から「オラ!」と声をかけられ、コーヒーを飲みながら世間話をする。観光客だからといって冷たくあしらわれることはない。 カピトリオを訪れたとき、ガイドが「この建物はキューバの誇りです」と話してくれた。そこに危険の匂いはなく、むしろ自分の文化を守りたいという誇りが溢れていた。 昼は地元のパラダールで魚のグリル。隣の席の家族が「どこから来たの?」と話しかけてくれた。旅の中で出会うこうした交流が、治安の良し悪しよりも心に残る。 午後はマレコン通りで海風を浴び、夕方には旧市街の広場でサルサの演奏を聴いた。地元の若者が観光客を誘い、一緒に踊る。危険よりも笑顔が先にある光景だ。 もちろん、どんな国でも注意は必要だ。しかし、ネットで見かける一面的な情報だけで判断してしまうのは、あまりにももったいない。自分の足で歩き、耳で聞き、目で見て感じたことこそが、本当の情報だ。 ハバナは、安全か危険かという二択で語れない。そこに暮らす人の温かさ、街のリズム、海と音楽が作り出す空気。それらが一体となって、この街を特別な場所にしている。 川滿憲忠

“自主性”をはき違える社会──子どもを放任する大人たちへの警鐘

近年、子育てや教育における「自主性の尊重」が強く叫ばれるようになった。確かに、管理や命令ばかりの教育では、子ども自身の意思や創造性は育たない。だが一方で、「何も言わずに見守るだけ」「好きにやらせることが正解」といった風潮が広がり、結果的に“放任”と“放置”が正当化されてしまっているように感じる。 「うちの子は自由に育っているから大丈夫」と口にする大人たちは、その“自由”の中で何が起きているか、本当に理解しているのだろうか。ルールも価値観も未発達な子どもに、すべてを委ねることが果たして教育なのか。それはむしろ、親の責任放棄ではないのか──。 とくにSNSやネット社会においては、子ども自身が無自覚に情報を発信し、傷ついたり、他者を傷つけたりするリスクが日常化している。だが、そうしたトラブルに直面したとき、大人は「自主性だから仕方ない」と言い訳するかのように距離を取り、対応を後回しにする傾向がある。 これは単なる価値観の違いではない。責任ある大人として、子どもを守る立場として、あまりに不誠実だ。 実際、「子どもの自己決定を重視するあまり、家庭内での基本的なしつけや生活習慣すら放棄してしまっている」というケースも散見される。朝起きる時間、食事のタイミング、宿題や整理整頓……それらすべてを“子ども任せ”にすることで、結果として子ども自身が社会で困難に直面する事態を招いてしまう。 もちろん、「自分の人生は自分で決める」ことは大切だ。だがそれは、“選べる土台”があってこそ成り立つ。判断材料や経験を大人が与えずに、「君が決めなさい」と放り出すことは、まったくの無責任である。 この風潮は、メディアや一部の教育論者によっても助長されている。自主性を尊ぶことが、すべての指導やルールを否定する根拠にすり替えられてはいないか。ときに「子どもに口を出すのは“毒親”だ」と断定的な論調が出回るが、それこそが短絡的なレッテル貼りだ。親が関わることすべてを“過干渉”として断罪することが、本当に子どものためになるのか疑問だ。 筆者自身、二児の親として子育てをする中で、「見守る」と「放置する」の境界に日々悩むことがある。干渉しすぎず、しかし放っておかず──そのバランスをとるのは決して簡単ではない。だが、だからこそ目をそらしてはならない。 子どもが失敗したとき、迷ったとき、親がどれだけの“余白”を用意できる...

クラシックカーとノスタルジー|キューバ・旧市街で感じた旅の原点(4日目)

 キューバ4日目。ハバナの旧市街に滞在中。窓の外には、カラフルなクラシックカーが走り抜けていく。これは観光用に保存されたものじゃなく、今も現役で生活の足として使われている。キューバの魅力は、作られた「観光地らしさ」ではなく、そこにあるリアルさだ。 今日はオビスポ通りを歩いた。おしゃれなカフェもあるが、基本的には手作り感満載の店ばかり。通りの先には子どもたちが走り回り、ベランダからは洗濯物がなびく。日本で日常に追われていたときには見えなかった「当たり前の生活」に、強く胸を打たれる。 ランチには「ラ・ボデギータ・デル・メディオ」でロパ・ビエハを。柔らかく煮込まれた牛肉の食感と、ほのかなスパイスが絶妙だった。キューバは物資不足の国という印象があるかもしれないが、現地で食べる料理にはちゃんとした“温かさ”がある。 午後は革命博物館。歴史的展示が並ぶその空間では、ただの観光では済まされない、国としての苦悩と誇りが感じられた。チェ・ゲバラの遺品を見ながら、この地で生きた人々の物語に思いを馳せる。 夕方は、宿の屋上から街を眺めた。オレンジ色に染まる空、静かに流れる時間、どこかから聞こえてくる音楽。そして、ふと隣にいた老婦人が「旅行者は風のようなもの」とつぶやいた。それがやけに沁みた。 旅行中、僕は何かを証明したいわけでも、SNSに映える写真を撮りたいわけでもない。ただ、誰かの価値観に縛られず、自分の目と足で世界を感じたかっただけだ。そんな旅が、今も自分の中で息づいている。 明日はまた、新たな街を目指す。