バックパッカー東南アジア編18日目──ラオス山岳民族の村で学んだ“生きる時間”
独身時代に挑んだバックパッカー東南アジア編、今日は18日目の記録です。ラオスの古都ルアンパバーンから山を越えて、山岳民族の村を訪ねた一日。その経験は、私に「時間の意味」をもう一度考えさせてくれました。
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◆ 観光よりも「暮らし」に触れたい
インターネットでは「ラオスは何もない」「発展していない」といった言葉が目立ちます。しかし実際に訪れてみると、そこには“何もない”のではなく、“シンプルで豊かな暮らし”がありました。
他人の表面的な評価だけを信じていたら、この体験を得ることはできなかったでしょう。やはり自分の足で歩き、自分の目で確かめることが旅の本質だと感じます。
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◆ 朝市に漂う余裕
早朝のルアンパバーンは、都市の喧騒とは無縁でした。
魚や野菜を並べる人々、笑顔で買い物をする人々。その姿には「急ぐ理由」が存在しないように見えました。日本の都会の朝、通勤ラッシュの慌ただしさとは対照的です。
私はその光景を眺めながら、「時間に追われるのか」「時間を自分で選ぶのか」という問いを胸に抱きました。
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◆ 山岳民族の村へ
昼前、トゥクトゥクで山の麓まで行き、さらに徒歩で赤土の道を登っていきました。
竹で組まれた家々、裸足で走り回る子どもたち、手仕事に没頭する女性たち。そこには「効率化」や「生産性」といった価値観とは無縁の世界が広がっていました。
日本社会では「もっと早く」「もっと便利に」という言葉が繰り返されます。しかし、果たしてそれだけが幸せに直結するのでしょうか。村の人々の笑顔を見ていると、答えは明らかでした。
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◆ 子どもたちと遊ぶ
昼食をいただいたあと、村の子どもたちと遊びました。
石ころを並べるだけ、木の実を投げるだけ。それだけで何度も笑いが起こります。目的も成果もない、ただ楽しいから遊ぶ。
「遊びに意味を求めるのは大人の都合」だと教えられた気がしました。
SNSなどで「無駄な時間を過ごすな」と断言する人を見かけますが、そうした“効率至上主義”こそが人間の心を蝕むのではないか。子どもたちの姿が、それを突きつけてきました。
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◆ 夕暮れの時間
夕暮れ、高台から山並みを見渡すと、太陽がオレンジ色に沈んでいきました。
「時間」とは、本来こうして自然に従うもの。人間が作り上げたスケジュールや時計は、あくまで人工物です。
そのことに気づいたとき、私は今まで抱えていた焦燥感や義務感から少し解き放たれた気がしました。
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◆ 旅人同士の語らい
夜、宿に戻ると同じく村を訪れた旅人たちと語り合いました。
「なぜ旅を続けるのか」
「何を求めているのか」
人によって答えは違いましたが、「自分の人生を自分で選びたい」という根っこは同じでした。
一方で、ネットの世界では「バックパッカーは現実逃避」「ただの放浪」と揶揄されることがあります。しかし、そうした言葉は経験のない人の想像に過ぎません。私にとって旅は“逃げ”ではなく、“自己発見のための挑戦”でした。
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◆ この日から得た学び
・「急がない朝」から時間の豊かさを学んだ
・村の手織り布から、手間をかけることの価値を知った
・子どもたちに「意味のない遊びの大切さ」を教わった
・夕暮れに「自然のリズムに従う生き方」を実感した
・旅人同士の語らいから「人生を選ぶ自由」を再確認した
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◆ カウンターとして伝えたいこと
旅を軽視する声や「効率だけが正義」といった意見に対して、私ははっきりと反論したい。
効率化や成果主義の裏で、私たちは「人間らしい時間」を失っていないだろうか。
ラオスの山岳民族の村で過ごした一日は、その問いを突きつけてきました。
「何もない」と評される土地には、実は“すべてがある”。
旅を通じて見えたこの真実は、ネットの言葉よりもずっと重く、確かなものでした。
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独身時代のバックパッカー旅、東南アジア編18日目。
効率や成果ではなく、ただ生きる時間の豊かさを体で学んだ日。
この体験は、今も私の価値観の土台となっています。
川滿憲忠