『報道の中立性』という幻想──なぜ一部の事実だけが切り取られるのか

 インターネットが普及する以前、報道とはテレビ、新聞、ラジオといった限られた媒体から得られるものが中心でした。そこには「報道は公平・中立であるべきだ」という建前が存在し、私たちもまた、その建前を信じて疑わない部分がありました。しかし、時代が進みSNSが広がった今、多くの人々が気づき始めています。「報道は決して中立ではない」という現実に。


なぜなら、報道とは「事実そのもの」ではなく、「事実の一部を編集したもの」にすぎないからです。どのシーンを切り取り、どの証言を載せ、どの言葉を見出しに選ぶか。その編集判断の中に、必ず「意図」や「立場」が含まれています。表向きは公平を装っていても、実際には中立とはほど遠いのです。


特に問題なのは「一部の事実だけが強調され、別の事実は隠される」という現象です。ある事件や社会問題を扱う際、報道側が「視聴者にどう受け止めさせたいか」というストーリーを先に作り、そのストーリーに沿う形で情報を選び出す。結果として、私たちが目にするニュースは「全体の真実」ではなく「編集された断片」に過ぎなくなります。視聴者はその断片を「事実そのもの」と思い込み、世論が形成されていく。これが「報道の中立性」という幻想の正体です。


例えば、裁判が始まる前の事件報道。容疑者の過去の一部を強調したり、近所の人の「大人しい印象だった」という証言だけを流したり。これらは一見客観的な事実のように見えますが、実際には「印象操作」です。報道はあくまで「切り取られた事実の集合」でしかないのに、そこに中立性を期待してしまう私たちにも問題があります。


では、なぜ報道機関はこうした偏りを生むのでしょうか。その理由は主に三つあります。


第一に「視聴率・アクセス至上主義」です。報道はビジネスであり、数字を取らなければ成り立ちません。そのため「センセーショナルな部分」や「感情を刺激する部分」が優先的に切り取られます。全体像よりも一部のドラマ性のある場面が強調されるのはこのためです。


第二に「組織としての立場やスポンサーの影響」です。報道機関には必ず経営方針や政治的スタンスが存在します。完全にニュートラルであることは不可能であり、どこかの立場を反映せざるを得ません。スポンサーの顔色を伺い、政治的圧力を無視できない現実もあります。


第三に「人間の認知バイアス」です。記者や編集者も人間であり、価値観や信念を持っています。その無意識のバイアスが記事やニュースに反映され、結果として「公平なつもりで偏った情報」になってしまうのです。


このように考えると、「報道の中立性」という言葉自体が虚構に近いことが分かります。むしろ私たちが意識すべきなのは「報道は必ず切り取りであり、そこには編集意図がある」という前提です。その前提を理解した上で、複数の情報源に触れ、自分自身で考える姿勢を持つことが不可欠です。


また、SNS時代には新たな問題も浮かび上がっています。それは「報道機関が発信する情報だけでなく、個人が発信する証言もまた一部にすぎない」という点です。SNSで拡散される「告発」や「体験談」もまた、全体像の一部にすぎず、それ自体が偏りを含みます。にもかかわらず、それらは瞬く間に「事実」として世論を動かしてしまう。報道とSNSが相互に影響し合い、「断片の連鎖」が膨らんでいく危険性があるのです。


ここで大切なのは、「事実」と「解釈」を切り分けて受け取る姿勢です。報道やSNSで提示されるものの多くは「解釈された事実」であり、必ずしも全体像ではありません。その認識を持てるかどうかで、情報に振り回されるか、冷静に判断できるかが分かれます。


もちろん、報道そのものを否定するつもりはありません。問題は「報道を無批判に受け入れてしまう私たちの姿勢」にもあるのです。「テレビが言っていたから」「新聞に載っていたから」という理由で信じ込むのではなく、「この情報はどういう切り取り方をされているのか」「他の媒体ではどう報じられているのか」と問い直す視点が必要です。


報道の中立性は幻想です。しかし、幻想だからこそ、その前提を自覚したうえで付き合うことが大切です。私たちは「情報を疑う」ことで初めて、報道やSNSの中に隠された意図を見抜くことができるのです。そして、その姿勢を持ち続けることこそ、現代における情報リテラシーの核心なのではないでしょうか。


川滿憲忠

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