「食育は“親の押し付け”ではなく“姿勢の共有”──好き嫌いのない子どもとキャベツのサラダから考える」
「子どもは親の写し鏡」という言葉はよく聞きます。しかし私は、必ずしもそれが正確ではないと思っています。子どもは確かに親を観察していますが、それは「コピー」ではなく、「姿勢」を受け取っているのだと感じています。
先日、1歳と2歳の息子たちと夕食をとっていたときのこと。私がシンプルに塩を振っただけのキャベツサラダを食べていたら、子どもたちがじっとこちらを見つめてきました。欲しそうな目で見つめてくるので、「食べたい?」と聞くと、「ちょーだい」と返ってきます。そこで「1口だけね」と差し出すと、少し戸惑ったような顔をしながらも口に入れ、「美味しいね」と形式的に返してくれました。
正直、私の心の中では「いや、生のキャベツなんて子どもにとっては美味しくないやろ」とツッコミを入れていました。でも、ここで大事なのは「美味しい」という言葉が形だけであったとしても、親が見せる姿勢に子どもが向き合っている、ということなのです。
日本では食育という言葉が広がり、「離乳食はこの時期からこう」「偏食は良くないからこう指導」といった“型”があふれています。けれども、食育とは「子どもを管理すること」ではなく、「親がどう食に向き合うか」を見せることのほうが本質なのではないでしょうか。
私は子どもに対して「嫌なら食べなくてもいい」と伝えています。無理やり食べさせても、それは食べることを義務化するだけであり、楽しさや安心感から遠ざけてしまうからです。大切なのは「食べるってこういうことなんだ」「親はこうやって食べているんだ」と自然に伝わる環境です。
実際、うちの子どもたちは偏食がほとんどありません。出されたものは「なんでも食べる」。それは、親である私が「美味しそうに食べる」姿を見せているからかもしれません。新しい食材を出したときも、「美味しいね」と声をかけることを習慣にしています。たとえ子どもが表情に迷いを見せても、そのやりとり自体が食育だと感じます。
「今日はこれしかないから、次はもっと用意しておくね」と伝えることで、「また次がある」という安心も与えられます。嫌悪感で終わらせず、「次はもっと楽しい体験になる」という期待を持たせることができる。これもまた、押し付けではなく“共有”です。
日本の社会は、「マニュアル通り」「正解通り」に子どもを導こうとしすぎているように思います。離乳食の時期も、「この月齢から始めなさい」とか「5歳まで母乳はおかしい」とか、正直、誰が決めたのか分からないルールに縛られています。しかし、世界を見渡せばもっと柔軟です。ミルクや母乳を長く続ける文化もあるし、子どもが自分で選べる時期がもっと早く訪れる国もある。
大事なのは「決められた通りにやること」ではなく、「その家庭に合った食の姿勢を持ち、子どもと共有すること」です。親がキャベツサラダを美味しそうに食べていれば、子どもは「食べるって自然なことなんだ」と受け取る。それだけで十分です。
私は食育を「教育」とは考えていません。むしろ「習慣」や「共感」に近い。親が食を楽しみ、子どもとシェアする──それが積み重なることで、好き嫌いに縛られない柔軟な食の感覚が育つのだと思います。
だからこそ、世の中に広がる「こうあるべき」という食育観に、あえてカウンターを打ちたいのです。食育は「型」ではなく「姿勢の共有」である。子どもは親のコピーではないけれど、親が食をどう楽しむかをちゃんと見ている。キャベツサラダを欲しそうに見つめ、少し戸惑いながらも「美味しい」と言ってくれた息子の姿が、それを教えてくれました。
親として私にできることは、特別な教育ではありません。ただ毎日の食卓で、「一緒に食べよう」「美味しいね」と言い合うこと。それが子どもにとっての本当の食育なのだと、改めて感じています。
──川滿憲忠