“普通の子に育てたい”という呪い──画一化された理想が家庭を壊す
「うちの子は普通に育ってほしい」──それは多くの親が自然と抱く願いだろう。「普通の子」でいてくれたら安心、「普通に学校へ行って」「普通に就職して」「普通に結婚して」くれたらと願う気持ちは、親心として否定しがたい。
だが、その“普通”は誰が決めたのか。そしてその“普通”を目指すことで、どれだけの子どもが苦しみ、どれだけの家庭が壊れてきたのか。今、私たちはこの問いに向き合わなければならない。
そもそも、“普通”とは非常にあいまいな言葉だ。ある家庭では「中学受験が当たり前」で、ある地域では「高校は地元で十分」という感覚がある。家庭によって、文化によって、経済状況によって、「普通」はまるで違う。
それにもかかわらず、どこかに「みんながそうしている」「世間的にはそれが当たり前」といった“幻想の基準”が立ちはだかる。そしてその基準に我が子を合わせようとする。多少のずれや個性が見られた瞬間、「うちの子はおかしいのでは」と不安になり、矯正しようとする。
これは非常に危うい。
発達のスピードには個人差がある。得意不得意も違う。性格や興味も当然異なる。それなのに、“普通の枠”からはみ出た部分を異常とみなす風潮は、子どもを深く傷つけるだけでなく、親自身も追い込んでいく。
「普通になってほしい」という願いは、「あなたは今のままではダメだ」というメッセージにもなりうる。善意のつもりで言った一言が、子どもの自己肯定感を奪い、「自分はおかしい」「親をがっかりさせている」という罪悪感につながってしまう。
もっと深刻なのは、“普通”を強制され続けた子どもが、自分で自分を嫌いになってしまうことだ。何かに興味を持っても「そんなのは普通じゃない」、何かに悩んでも「それぐらい普通は我慢するものだ」と言われる。そうして自分の内面を押し殺していった結果、自分自身を見失ってしまう。
家庭が本来果たすべき役割は、「子どもを枠にはめること」ではなく、「その子に合った生き方を支えること」ではないか。にもかかわらず、多くの親が“普通”を掲げることで、無意識に子どもを管理しようとしてしまう。
これは社会の構造的な問題でもある。メディアや教育現場、SNSに至るまで、「理想的な家庭像」「正しい育児法」「子どものあるべき姿」が溢れており、親は無意識のうちにそれを信じ込み、自分の育児を“評価”されているかのように感じてしまう。
「うちはちょっと違うかもしれない」と感じた瞬間、居心地の悪さや不安を感じ、なんとか周囲と“同じ”にしようと躍起になる。すると、ますます自分の子どもを観察する視点が「正解かどうか」に偏っていく。
だが本当は、「正解」など存在しない。子育てにおいて大切なのは、目の前の子どもがどんな人間で、何に喜び、何に傷つくのかを丁寧に知ることだ。そのプロセスの中に、唯一無二の親子の関係が生まれる。
「普通になってほしい」ではなく、「あなたらしくあってほしい」と願えること。そこにこそ、家庭という小さな社会の健全さが宿る。
“普通”という言葉は一見やさしいようでいて、実はとても暴力的でもある。意図せずとも、個性を排除し、多様性を否定し、家庭内に競争と評価の空気を持ち込んでしまう。その空気は、子どもを疲弊させ、親を孤独にする。
「普通の子」は存在しない。それぞれが違っていて、それでいい。その前提に立たないかぎり、子どもは「ありのままの自分」でいることが許されない。そしてその許されなさは、親自身をも息苦しくさせる。
子育ては、“正しさ”を競うものではない。共に迷い、試行錯誤しながら、その家庭なりのペースで歩んでいくものだ。だからこそ、「うちはうち」と言える強さが必要になる。
“普通”を捨てる勇気。それは、子どもだけでなく、親自身を解放する第一歩になる。
──川滿憲忠