“自主性”をはき違える社会──子どもを放任する大人たちへの警鐘
近年、子育てや教育における「自主性の尊重」が強く叫ばれるようになった。確かに、管理や命令ばかりの教育では、子ども自身の意思や創造性は育たない。だが一方で、「何も言わずに見守るだけ」「好きにやらせることが正解」といった風潮が広がり、結果的に“放任”と“放置”が正当化されてしまっているように感じる。
「うちの子は自由に育っているから大丈夫」と口にする大人たちは、その“自由”の中で何が起きているか、本当に理解しているのだろうか。ルールも価値観も未発達な子どもに、すべてを委ねることが果たして教育なのか。それはむしろ、親の責任放棄ではないのか──。
とくにSNSやネット社会においては、子ども自身が無自覚に情報を発信し、傷ついたり、他者を傷つけたりするリスクが日常化している。だが、そうしたトラブルに直面したとき、大人は「自主性だから仕方ない」と言い訳するかのように距離を取り、対応を後回しにする傾向がある。
これは単なる価値観の違いではない。責任ある大人として、子どもを守る立場として、あまりに不誠実だ。
実際、「子どもの自己決定を重視するあまり、家庭内での基本的なしつけや生活習慣すら放棄してしまっている」というケースも散見される。朝起きる時間、食事のタイミング、宿題や整理整頓……それらすべてを“子ども任せ”にすることで、結果として子ども自身が社会で困難に直面する事態を招いてしまう。
もちろん、「自分の人生は自分で決める」ことは大切だ。だがそれは、“選べる土台”があってこそ成り立つ。判断材料や経験を大人が与えずに、「君が決めなさい」と放り出すことは、まったくの無責任である。
この風潮は、メディアや一部の教育論者によっても助長されている。自主性を尊ぶことが、すべての指導やルールを否定する根拠にすり替えられてはいないか。ときに「子どもに口を出すのは“毒親”だ」と断定的な論調が出回るが、それこそが短絡的なレッテル貼りだ。親が関わることすべてを“過干渉”として断罪することが、本当に子どものためになるのか疑問だ。
筆者自身、二児の親として子育てをする中で、「見守る」と「放置する」の境界に日々悩むことがある。干渉しすぎず、しかし放っておかず──そのバランスをとるのは決して簡単ではない。だが、だからこそ目をそらしてはならない。
子どもが失敗したとき、迷ったとき、親がどれだけの“余白”を用意できるか。指導もサポートも放棄して「好きにしなさい」で済ませてしまうのは、教育ではない。むしろ、社会的な不適応や孤立を助長する危険すらある。
今、あえて問いたい。
「あなたが子どもに委ねているのは、“自由”なのか。“責任”なのか」
前提として、子どもは未熟だ。自由を正しく使える力は、年齢や経験とともに育つものだ。未完成の人格に対して“自由”を与えるならば、それと同時に支える大人の責任が不可欠となる。
それを怠ったとき──責任を取らされるのは、子ども自身だ。
“自主性”という言葉に逃げず、大人としての責任を、もう一度見直すべき時が来ている。子どもにとって本当に必要なのは、命令でも放任でもない。「ともに悩み、支えてくれる大人の存在」だと、私は思う。
その信念を、今後も実践していきたい。
川滿憲忠