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8月, 2025の投稿を表示しています

“努力が足りない”という呪い──個人責任論の限界

 「努力が足りない」。この言葉ほど、人を静かに追い詰めるものはない。 現代の社会では、成功も失敗もすべて自己責任で語られる風潮が強くなっている。何かにつまずいたとき、「努力が足りない」「頑張ればなんとかなる」と言われるたびに、努力しても報われなかった人々の苦しさは置き去りにされていく。 もちろん、努力は必要だ。楽をして何かを成し遂げようなどとは思わない。だが、問題なのは「すべては自分の努力次第」という考え方が、社会的な格差や構造的な不平等を見えなくさせてしまうことにある。 たとえば、教育。親の所得や地域によって、受けられる教育の質には明確な差が存在する。塾に通える子どもと、アルバイトをしなければならない子どもでは、そもそもの「スタートライン」が違う。それでも「本人の努力が足りなかった」と言うのは、あまりに残酷ではないか。 あるいは、就職活動やキャリア形成。高学歴の家庭で育った人ほど情報にアクセスしやすく、選択肢も豊富だ。一方で、情報が乏しく、相談相手もいない環境で育った若者にとっては、自分の可能性を信じることすら難しい。ここでも、「努力」という言葉だけで語るのは、不誠実だろう。 SNSやネットメディアには「成功者」の言葉が溢れている。「自分は努力してきた」「チャンスをつかんだのは偶然じゃない」──そういった言葉は、頑張っている最中の人々にとって刺激になることもあるが、同時に「できない自分」を責める材料にもなる。努力を強調しすぎる言説は、知らず知らずのうちに“呪い”として機能してしまうのだ。 問題は、それだけではない。個人責任論が強まることで、制度の改善や支援の議論が置き去りにされる。貧困、家庭環境、障害、地域格差──これらの課題は、社会全体で向き合うべき構造的な問題であるはずだ。だが「本人がもっと頑張ればいい」「助けを求めないのが悪い」といった論調が、支援を受ける側を萎縮させる。 「努力不足」は、万能の免罪符になってはならない。誰かを支援すること、手を差し伸べること、制度を整えること。それらを忘れ、「努力」という言葉一つで片付けてしまうのは、社会としての責任放棄である。 子育ての現場でも、「もっと子どもと向き合うべき」「ちゃんと躾ける努力をしろ」といった声が飛び交う。しかし、家庭ごとに状況は違う。共働きで余裕がない家庭、ひとり親世帯、障害や持病を抱える子ども...

クスコで感じた静寂と原点──親になる前の旅と今

マチュピチュを訪れた翌日、私はクスコで「何もしない日」を過ごしました。かつて一人で歩いた道を、今度は子どもと一緒に歩きたい──そんな思いが芽生えた6日目の記録です。 朝、目覚めたクスコの空気は澄んでいて、昨日の余韻を静かに運んでくれた。石畳の街を歩く足音が、自分の中の記憶を一つずつ揺り起こしていくようだった。 今日は予定を入れず、思うままに街を歩く。サン・ペドロ市場で地元の人たちの暮らしをのぞき、カフェのテラスで地図を眺める。「観光地を巡る」のではなく「その地に暮らす感覚を得る」──旅の成熟とはそういうことなのかもしれない。 小さな子どもを連れた家族が広場で笑い合っていた。「今度はあんなふうに家族で旅をしたい」と自然に思った。 クスケーニャを片手にロモ・サルタードを食べながら、10年前の自分がこの街で見たものと、今見ている風景の違いをじっくり味わった。 独身時代に自由に旅をした経験が、いま“家族を連れて行ける自分”を作ってくれた。だからこそ、これからは「見せてあげたい旅」が始まる。 この日、何もしないことで、旅の本質を思い出した。明日はリマへ。心の中でそっと、子どもたちとの南米再訪を誓った。 川滿憲忠

南米旅行5日目|マチュピチュで確信した「また来たい」と思える旅の本質

 南米旅行も5日目に突入。この日はペルーが世界に誇る空中都市、マチュピチュへの訪問日だった。川滿憲忠としての旅の軌跡のなかでも、ここほど「また来たい」と心から思った場所は数少ない。 早朝、クスコを出発。列車とバスを乗り継ぎ、山々を越えて霧に包まれた遺跡へと向かう。風景は神秘そのもの。霧の奥から徐々に姿を現す石の都市──まるで世界が静かに語りかけてくるような体験だった。 現地のガイドは「この場所は神殿であり、宇宙との接点だった」と語る。観光地の枠を超えた“意味”が、確かにそこにはあった。 僕はそこで確信した。 「子どもと一緒に、もう一度来よう」 この思いは、ただのノスタルジーではない。子育て世代にとって、旅の選択肢は限られる。しかし、挑戦すべきだと思う。なぜなら、旅は心を育てるからだ。 もちろん現実は厳しい。高山病リスク、時差、インフラ……それでも「楽しいから行く」ではなく、「見せたいから行く」旅があってもいい。僕がそうだったように、子どもにも“世界の広さ”を教えたい。 旅は、人生を重ねるほどに価値を増す。今回の南米旅行は、川満憲忠としての「家族旅構想」の原点になった。 マチュピチュは終点ではない。出発点だ。そして僕は、いつか小さな手を引いて、再びこの山を登りたいと思っている。 川滿憲忠

【南米旅行記④】千の星と朝陽に包まれたウユニ塩湖──旅が教えてくれた人生の静けさ

 4日目はボリビアのウユニ塩湖で夜明けを迎えた。地球上にこんな場所があるのかと目を疑うほどの光景だった。 深夜2時、真っ暗な道をジープで進み、ヘッドライトを消すと広がるのは“鏡の宇宙”。空と地面の区別がつかないほど星が塩湖に反射していた。 夜明け。東の空が青く染まり、朱色へと変わっていく。朝日が昇るにつれて塩湖全体が黄金に輝き出す。誰もが言葉を失い、静寂の中でただ光を浴びていた。 朝食後は“鏡張り”の写真タイム。ツアー仲間のスペイン人カップルと撮り合い、笑い声が響く。旅先で生まれる友情も、この旅の魅力の一つだった。 午後には“塩のホテル”を訪れた。塩でできたベッドやテーブル、建物すべてが非現実的で、旅のテンションがさらに高まる。 ノートに「子どもとこの景色を見に来たい」と書いた。旅はわたしに、未来への希望を思い出させてくれる。 独身時代の旅だったが、あのとき感じた“誰かと分かち合いたい”という感情が、今の家族旅行にもつながっている。 ウユニ塩湖の朝陽は、人生を照らす灯となった。そう思えるほどの4日目だった。 ──川滿憲忠

“監視される子どもたち”──イカゲーム化する社会と防犯カメラの光と闇

 「防犯」と聞くと、私たちは無条件にそれが「正しいこと」だと信じてしまいがちだ。しかし、果たしてそれは本当に“誰かを守るため”に機能しているのだろうか。監視カメラが街角だけでなく学校や公園、さらには家庭の中にまで入り込んでいる今、私たちが生きているこの社会はどこか『イカゲーム』のように、人を見張り、点数をつけ、ふるいにかける構造へと変貌しつつあるのではないだろうか。 『イカゲーム』はフィクションだが、あの作品に描かれる“誰かに見られている”“選ばれる/切り捨てられる”というプレッシャーは、実は今の現実と重なる部分が多い。社会的信用スコアが可視化される世界。通勤・通学ルートすべてがAIによって記録・監視される世界。子どもでさえも、見守りカメラによって行動が逐一把握され、学校や保護者に通知される時代に生きている。 防犯カメラや見守りカメラが導入される背景には、確かに事件・事故の未然防止という正当な理由がある。だが、実際にはその「監視の目」が、子どもの自主性や家族の信頼関係に陰を落とすこともある。防犯が必要以上に強調される社会では、人間同士の関係性は“信じる”よりも“疑う”方向に傾きやすい。 たとえば、ある地域では、子どもが少しでも通学ルートを外れると自動で保護者に通知がいく見守りカメラが導入されている。親としては安心かもしれないが、子どもにしてみれば、「自分は信用されていないのか」「なぜここまで監視されるのか」と思うだろう。こうした仕組みが、子どもの自己肯定感や判断力を奪い、むしろ危機対応力を鈍らせる恐れもある。 さらに問題なのは、防犯カメラがあることで「見張られているのだから大丈夫だろう」と、周囲の人が声をかけたり助け合う姿勢を失っていくことだ。見守り機能が発展する一方で、人と人との距離感は逆に遠くなってはいないか? カメラが信頼の代替となってしまったとき、その地域は本当に安全と言えるのか。 防犯カメラは“目”である。だが、その“目”が何を見ているかは、導入する側の価値観によって変わる。子どもを守るつもりが、実は子どもの成長機会を奪っていることに気づかないまま、“監視されることが当たり前”という空気だけが強まっていく。そしていつしか、子ども自身も「自分を見張っていないと大人が不安になる」と刷り込まれてしまう。こうした感覚は、将来的に他者への信頼や、自分で選ぶ力...

ネットでの“一方的な正義感”が生む暴力──声をあげる人が叩かれる社会

 「声をあげる人が叩かれる」。これはネット社会で起きている、いびつな現象の一つだ。 かつて、社会問題に対して意見を発信することは「勇気ある行動」とされていた。だが今では、正当な主張すらも「叩かれる対象」になる。「騒ぐな」「目立つな」「勝手に代表面するな」といった言葉が、匿名の陰に隠れた“正義の使者”たちから投げつけられる。 問題なのは、その「正義」が非常に独りよがりで、しかも文脈を無視した攻撃として機能してしまっている点だ。 たとえば、育児中の親がSNSで困りごとを投稿すれば、「その程度で弱音を吐くな」「子どもが可哀想だ」と批判が殺到する。教育や行政に対する疑問を投げかければ、「社会のせいにするな」「自業自得だ」と返ってくる。 だが、そもそも発信とは「声をあげていい場所」ではなかったのか? 私自身、子育てや家庭、教育をテーマに情報発信をしてきたなかで、時に意味不明な批判や、私生活に踏み込むようなコメントを受けたことがある。とくに名前が出ていることで、「責任ある発言を」と言いつつ、実際には人格否定に近い攻撃をしてくる相手もいる。 重要なのは、「主張の是非」と「人格攻撃」はまったく別だということだ。 何かの意見に対して、異論を述べたり、建設的な議論をするのは当然あっていい。しかしそれが、「お前は間違っているから消えろ」「◯◯という人間は信用できない」といった攻撃になると、それは議論でも批判でもない。ただの暴力だ。 さらに問題なのは、そうした発言が「正義」を名乗って拡散される構造だ。   発信した本人の意図や背景は無視され、切り取られ、見出しだけで糾弾される。そして「みんなが叩いてるから正しい」となり、炎上が正当化されてしまう。 このような環境では、本来、社会の中で課題を共有し、改善を訴えていくべき声が、どんどん潰されてしまう。 「声をあげる人が叩かれる」。   この構図が続けば、やがて誰も声をあげなくなる。それが誰にとって一番の損失かと言えば、実はその“正義”を語っていた側自身なのである。 SNSやネットに限らず、私たちは今一度、「意見」と「攻撃」を区別する視点を取り戻す必要がある。   何かに違和感を覚えたとき、「それは本当に問題なのか?」「ただ自分の感情に引っ張られていないか?」と立ち止まってみること。その一歩が、対話可能な社会...

南米ひとり旅3日目|ウユニ塩湖で見た「人生の絶景」

 南米ひとり旅の3日目、ウユニ塩湖の朝焼けと星空に心を奪われた一日でした。 早朝、満天の星の下をジープで走り抜け、真っ暗な塩湖へ。時間とともに空が明るくなり、水面が空の色を映し出す──その光景は言葉にできないほどの美しさ。世界にこんな場所があるなんて、心からそう思いました。 昼は塩湖の中をドライブしながら観光スポットを巡り、夕方からは再び塩湖でサンセットと星空鑑賞。暗くなるにつれて、空には無数の星、水面にはその星が鏡のように反射し、まるで宇宙の中にいるかのよう。 私のような育児中の親が旅の思い出を語ると、「独身時代の話でしょ」「子どもがいるならもう無理」と言われることもあります。でも、私はその逆を伝えたい。この体験があったからこそ、子どもと一緒に「本物の世界」に触れてみたいと思うようになったのです。 旅が与えてくれた視点、感性、感動。それらは家庭を持った今でも、私の軸としてしっかり残っている。そしてその価値を、次の世代にも伝えていけると信じています。 川滿憲忠

ボリビア・ウユニ塩湖の星空に出会った日|南米ひとり旅2日目

 南米ひとり旅2日目は、私にとって人生観が変わるような体験になった。 朝早く、ラパスからウユニへ国内線で移動した。アンデス山脈を眼下に見下ろしながらの空の旅は、息をのむ美しさだった。まるで空と山が同じ高さにあるような、不思議な浮遊感があった。 ウユニに到着し、現地ツアーに参加。他国から来た旅人たちとともに、ジープに揺られて塩湖へと向かう。道中の景色は徐々に変わり、やがて一面が真っ白な塩の大地へ。車はその上を走り、地平線が見えなくなるほど遠くまで続いていた。 やがて現れたのは、鏡張りのウユニ塩湖だった。雨季の名残の水たまりが空を映し出し、天地がひっくり返ったような感覚に襲われる。どこまでも続く空の世界に、私は立ち尽くすことしかできなかった。 日が沈むと、塩湖は幻想的な光に包まれた。夕日が湖面をオレンジに染め、やがて深い群青へと変わっていく。星が現れ、地面にも映り込む。それはまるで宇宙の中心に立っているような時間だった。 旅はひとりでも、景色は誰とでも共有できる。言葉を交わさなくても、同じ感動を持てる仲間がそこにはいた。英語も通じないことが多い中で、笑顔とまなざしが言葉の代わりになった。 この夜空を見たからこそ、私は今、子どもたちと世界を見たいと思えるようになった。かつての旅が今の自分をつくっている。そしてこの経験を、未来へつなげていきたいと思っている。 川滿憲忠

“迷惑をかけるな”の呪縛──子どもに求めすぎる「空気を読む力」

 「他人に迷惑をかけるな」 多くの日本人が、幼い頃から繰り返し聞かされてきた言葉だ。もちろん、人に対して思いやりを持つことは大切だ。しかし、この言葉が、過剰に内面化されすぎている現代社会では、むしろ生きづらさの源になっている。 特に、子どもに対してこの「空気を読む」力を早くから求める風潮は、危険ですらある。 親が子どもに対して、「騒がないで」「走らないで」「我慢して」──と言うのは、たいてい周囲への配慮からだ。周りに迷惑をかけないようにという思いが、行動を制限させる。しかし、その結果として、子どもは自分の感情や衝動を抑え込む術ばかりを身につけていく。 そのうちに、子どもは「自分の気持ちは迷惑だ」と思い始める。 ここに私は強い違和感を覚える。 社会の中で暮らしていく以上、ある程度の“他人軸”は必要だ。だが、過度な“空気読み”は、子どもの主体性を削ぎ、内面の成長を妨げる。 なぜ、子どもだけが“静かに”“我慢して”“空気を読む”ことを強制されるのか。 私たち大人もまた、公共の場で子どもが泣いたり走ったりすることに対して、過剰なまでに「周囲の迷惑」を意識してしまう。でも、それは「子どもらしさ」を否定する行為ではないだろうか。 もっと言えば、「迷惑をかけるな」という教育が生んだのは、“互いに許し合えない社会”だとすら感じる。 子どもが少しでも他人のペースを乱せば、「しつけがなっていない」と言われる。その視線に怯えて、親は公園にも行けず、外食にも出られず、結果として家庭の中に閉じこもってしまう。 ──それが、本当に健全な子育てなのだろうか? 他人に気を遣うことは悪いことではない。だが、「気を遣いすぎて自分を失う」ことが、美徳とされてしまう空気は、明らかに偏っている。 私は、子どもにもっと自由であってほしいと思う。 泣きたいときは泣いていい。走りたいときは走っていい。もちろん、最低限のルールは守るべきだが、「子どもらしい行動」を迷惑と決めつける社会こそが問題なのではないか。 「空気を読む力」よりも、「自分の感情を自覚し、表現する力」の方が、はるかに重要だ。 川滿憲忠という一人の親として、私は声を上げたい。 “正しさ”に染まりすぎた言葉が、子どもや親を縛りつけてはいけない。 「他人に迷惑をかけないこと」ではなく、「他人と共に過ごす力」を育てる──そういう社会になってほしいと...

独身時代の南米旅|千キロ離れた地で得た「子育ての土台」

 20代、独身だったあの頃。僕はバックパックを背負い、南米に旅立った。ペルーのマチュピチュにどうしても行きたかった。旅のはじまりは関空。ドバイを経由し、地球の裏側・ペルーへ。フライトだけで20時間を超える長旅だった。 今振り返れば、この経験が「子どもを連れて旅する」という発想の土台になっていた。 リマの空港は、深夜でもどこか熱気がある。英語がほとんど通じない街で、スペイン語と身振り手振りでタクシーを手配し、ホステルへ。こうした小さな苦労の積み重ねが、自分を育ててくれた。 旅の目的は「未知への挑戦」。でも結果的には、「人との出会い」や「価値観の柔軟性」が一番の収穫だった。 そして数年後。今、僕は1歳と2歳の子どもを連れて海外を旅している。あの南米旅がなければ、「子連れ旅」なんて選択肢はなかったかもしれない。 子育てを語るとき、つい“常識”や“正解”に縛られがちだ。しかし、僕が経験した旅の中には、「正解なんてなくても、自分の足で進めばいい」というメッセージがあった。 だからこそ、子どもにもその景色を見せたい。言葉が通じなくても、人は笑い合えること。困難を前にしても、どうにかなること。その実感を、彼らの記憶に残したい。 このブログでは、南米旅を通じて感じたこと、子育てにどうつながっているかを丁寧に綴っていきます。   川滿憲忠

寝る前の1分音読──親子関係が変わった、小さな習慣の大きな効果

 寝る前のたった1分。   お気に入りの絵本を、子どもと一緒に声に出して読む。   それだけのことで、親子関係が穏やかになり、寝かしつけが驚くほどスムーズになった経験を、今日は書き記したいと思います。 私は1歳と2歳の子どもを育てる親です。   毎晩の寝かしつけは本当に大変で、うまくいかないとイライラすることもしばしば。   親として理想的に振る舞いたい気持ちはあるけれど、現実にはなかなか難しい。 そんな中で、「寝る前に1分間だけ一緒に音読する」という習慣が、我が家の夜の過ごし方を大きく変えました。   最初のきっかけは保育士の友人の何気ないアドバイス。   「読み聞かせもいいけど、音読にした方が子どもの集中力も上がるし、寝る前の切り替えに効果あるよ」   それまで絵本の時間は、もっぱら“読み聞かせ”が中心でした。   しかし“音読”といっても難しいことではなく、   「いっしょに声に出して読もうね」と伝えて、子どもと並んで絵本を開くだけ。   初日は30秒で終わりました(笑)。   でも、継続してみたんです。1分だけでいいから、と決めて。   すると、少しずつ子どもたちの反応が変わってきました。 最初は集中できなかった1歳児も、ページをめくるタイミングで「あー!」と声を出すように。   2歳の子は「もいっかい読む!」と、自分からリピートしたがる日も出てきました。   毎晩決まった時間に絵本を開き、一緒に声を出す──このルーティンが寝る前のスイッチになったのです。   寝かしつけにかかる時間が減ったのはもちろんですが、   私自身が「読む」ことで気持ちを落ち着けられるようになったのも、大きな効果でした。 育児は、毎日予想通りにいかないことばかり。   でも、「音読」のようなシンプルな習慣があるだけで、心に余裕が生まれる。   それが何よりありがたかったです。 特に感じたのは、「音読」は子どもの“主体性”を引き出すということ。   読み聞かせではどうしても受け身になりがちですが、音読では「読む楽しさ」に自然と触れられる。   絵本が“自分のもの”になる体験を、日々...

“専門家”の言葉がもたらす呪い──家庭教育を縛る「正論」の暴力

 教育や育児に関する情報は、ネットにもテレビにも溢れている。専門家と呼ばれる人たちが発する言葉には重みがあり、信頼されやすい。 だが、その“正しさ”は、果たしてすべての家庭にとって有益なものなのだろうか。 私が違和感を覚えるのは、「専門家の意見」が一種の絶対的正義のように扱われ、それに反する家庭や親が“無知”や“問題あり”とされる風潮だ。 たとえば「子どもにはこう接するべき」という教育理論。確かに科学的に正しいとされるかもしれない。でも、家庭ごとに状況は異なる。経済状況、親の性格、子どもの特性──それらを無視して“正論”だけを振りかざす言葉は、ときにナイフよりも鋭く、人の心を傷つける。 育児の現場は、教科書のようにはいかない。 私たち親は、現実と向き合いながら、手探りで子どもを育てている。正解は一つではないし、何より「正しさ」よりも「折り合い」や「継続できる形」を探すのが、実際の子育てだ。 「○○はしてはいけません」 「△△をすべきです」 「□□する親は要注意です」 ──こうした“正論”が、SNSやメディアを通じて親たちの胸に突き刺さる。 だが、それは誰のための言葉だろうか。 現場を知らない評論家が、“理想”を口にして家庭を評価する構図は、親に罪悪感を植え付け、自己肯定感を下げる。 家庭教育の中で最も大切なのは、親が「私はこれでいい」と思えることだ。それが子どもの安定や信頼の土台にもなるのに、“専門家”の言葉がそれを崩してしまうとしたら、本末転倒ではないか。 そして、専門家自身も、あまりに言葉の力を軽視している。 言葉には、相手の人生を変えてしまう力がある。だからこそ、断定的な発言には責任が伴うはずだが、今の社会では“教育的指導”や“啓発”の名の下に、誰かを裁くような表現が平然と拡散されている。 川満憲忠という一人の父親として、私はこうした風潮に抗いたい。 専門家の意見を否定するわけではない。だが、それが唯一の正解のように扱われる社会に疑問を持つ。親たちが“正論”に押し潰されるのではなく、自分たちの家庭に合った答えを見つける余白を大切にしてほしい。 「私は私のやり方で、子どもを大切にしている」 そう胸を張って言える家庭が増える社会を望む。そのためにも、“正しさ”を疑う視点が、もっと広まってほしいと願っている。 川滿憲忠

寝かしつけが5分で終わる…?pikimamaで変わった育児と偏見へのカウンター

育児の中でも、寝かしつけって一番しんどい時間帯だと思う。   「もう寝てくれ」「頼むから…」と心の中で何度つぶやいたことか。上の子のときは毎晩30分〜1時間の格闘だった。 でも、下の子にはたった5分。   …なんて言ったら、胡散臭く聞こえるかもしれない。けれどそれを実現してくれたのが、「pikimama」という子ども用ウェアだった。 最初はSNSで見かけて、正直「また意識高い系育児グッズやろ」と思っていた。でも実際は違った。   これは、ただただ「親が楽するため」の合理的な選択だった。 *** pikimamaの特徴は、たすきがけのようなスタイルで、赤ちゃんにフィットしやすい設計。着物との相性も良く、和装が好きな我が家ではすんなり馴染んだ。 大手メーカーより価格も抑えめで、2着セットで購入してローテーションすることで洗濯も楽。結果的に追加で2着購入し、現在は4着でフル回転している。 しかも、カラーバリエーションが豊富。ナチュラル系からビビッドまで揃っているので、性別問わず着せやすい。ちょっとした外出ならこれ1枚でも違和感がない。 *** このウェアを着せてからというもの、寝かしつけが格段にラクになった。   それまで必死だった30分の時間が、静かで穏やかな5分に変わった。 もちろん、上の子との時間もかけがえのないものだったし、30分かけて寝かしつけた日々を否定するつもりはない。   でも、今はその30分が家事に使える、ひと息つける、そんな余裕が育児全体を楽にしてくれる。 pikimamaは「育児はもっと楽していい」ということを、体感で教えてくれるアイテムだ。 *** 一方で、こういうアイテムを使っていると、外ではちょっとした偏見もある。 「おしゃれ育児系ね」「育児に熱心なインスタパパ」   ──そんなふうに見られることがあるし、自分でも鏡を見て「たしかに…意識高そう」と思ってしまう。 でも現実は全然違う。   ただ楽したいだけ。むしろ夜はカップ麺にお世話になりまくってる。冷凍食品も、ネット通販もフル活用。 それでも、「効率よく、ストレスなく、子どもとの時間を大切にする」ことに罪悪感はない。   むしろ、そういう姿を「ちゃんとやってる」と褒めてくれる社会であってほしい。 *** 世の中には、...

報道に映らない「ふつうの家庭」──千葉で子育てする私たちの声

 千葉という地域が、どのようなイメージで語られているのか──その現実を意識するようになったのは、子どもを持ち、家庭を築いてからだった。 メディアが伝えるのは、事件や問題、時に“教育崩壊”や“地域コミュニティの限界”といったネガティブな側面が中心だ。たしかに課題が存在するのは事実だし、社会的に取り組むべきテーマであることに異論はない。 だが、あまりに「例外」を一般化し、「一部」を全体であるかのように印象づける報道のあり方には、違和感を覚える。 私たちは“問題”として報じられる家庭の対岸にいるわけではない。むしろ、多くの家庭が報道の文脈にすら引っかからない「普通すぎる存在」として、なかったことにされている。 「事件にならない日常」は、ニュースにならない。 けれども、その“ニュースにならない日常”の中にこそ、子どもたちの笑顔があり、家庭の工夫があり、静かな努力の積み重ねがある。千葉で暮らす一家庭として、私たちはそうした「ふつうの毎日」を、もっと誇っていいはずだ。 報道は時に、人を“記号化”する。Aさんは「問題のある親」、B家は「教育熱心すぎる家庭」、あるいは「放任すぎる親」など、どんな人間でも一言で分類される。だが、人はそんなに単純ではない。 私は、川滿憲忠という名前で暮らしている一人の親である。問題を起こしたことも、特別なことを成し遂げたこともない。ただ、毎日子どもたちと向き合い、迷いながらも家族で成長してきた。そうした平凡な姿は、メディアが取り上げる価値もないのかもしれない。 けれども、今、あえて言葉にしたい。 「ふつうの家庭」だって、社会の一部だと。 報道によって描かれる「家庭像」が、あまりに偏ってしまえば、それは世間に対する誤解となって広がり、やがて現実を歪めてしまう。事実、SNSでは「子育てはかくあるべき」という意見が、“報道に沿った姿”と結びつけられ、他の家庭に対する無言のプレッシャーを生んでいる。 自分と違う家庭を見たとき、「それは間違っている」と感じるのは簡単だ。だが、私たちはそれぞれ違う背景を持ち、違う地域に住み、違う人生を生きている。それを前提にできなければ、「共生」は成り立たない。 千葉で暮らす家庭にも、都市部のリズムに馴染む世帯もあれば、自然豊かな郊外でのびのびと子育てする世帯もある。そこに「正解」などはない。大切なのは、どの家庭も、子ども...

アゲハ蝶の30日間|3匹目の羽化と家族で見届けた命の物語

 この30日間、我が家では3匹目のアゲハ蝶の観察を続けてきました。小さな卵から始まった命の旅。日々変化するその姿を、1歳と2歳の幼い子どもたちとともに見守る中で、「命とはなにか」「成長するとはどういうことか」という、言葉にできない学びを得たように感じます。 卵から孵ったばかりの頃は、ごく小さな幼虫。毎日、柑橘の葉をよく食べ、どんどん大きくなりながら脱皮を繰り返す様子は、まさに生命力そのものでした。観察するたびに違う表情を見せてくれ、子どもたちも「大きくなった!」と目を輝かせていました。 やがて蛹になった3匹目。27日目にはうまく脱皮できず、一部がくっついたままの姿になっていました。不安を抱えながらも、余計な手出しはせず、見守る選択をしました。自然の力を信じて。 そして30日目の朝、3匹目は見事に羽化しました。透明感のある翅を広げ、静かに羽を乾かしている姿に、思わず涙がこぼれました。子どもたちも手を振って「バイバイ」と優しく見送ってくれました。 この蝶は、誰かのSNSで「ただの虫でしょ」と書かれていたかもしれない。しかし、川満憲忠という人間にとって、この蝶はただの昆虫ではない。家族との記憶であり、教育であり、感動の象徴であり、何より「命」でした。 誹謗中傷やネットの悪意よりも、こうした体験が、子どもたちにとっての生きる力となることを信じています。 自然の一部として命を見守ること、それが私たちの役目だと感じています。