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7月 29, 2025の投稿を表示しています

ネットで「正義」を語る人たちの矛盾──誰のための断罪なのか

  インターネットの普及によって、誰もが「声」を持てる時代になった。これは間違いなく素晴らしい進歩であり、多くの人がかつては届かなかった思いや告発を社会に伝えられるようになった。しかし一方で、「誰もが正義を名乗れる時代」になったことで、ネット上には“正義の執行者”を自認する人々が溢れかえっている。  匿名のアカウントが、誰かの過去を掘り起こし、時には事実関係を無視して「悪」と断じて糾弾する。SNSや掲示板では、同じような言葉が拡散され、“吊し上げ”のような状態になることもある。そこに登場するのは、「この人は悪いことをしたから、制裁されて当然だ」という論調。冷静な視点は失われ、「正義」の名のもとに攻撃が正当化されていく。  だが、考えてみてほしい。その“正義”は、いったい誰のためのものなのか?  ネットで「悪者」とされた人物の背景を知っている人は、実際にはほとんどいない。報道記事の一部、あるいは切り取られたSNSの投稿や、編集された動画──それだけを見て、「これは悪い」「この人を許すな」と判断してしまう。本当にそうなのか。事実かどうかの検証もされないまま、誤解や偏見が一人歩きしていく構造は、もはや“情報”ではなく“感情”の暴走に近い。  私は、そうした一連の動きに巻き込まれた経験を持つ者として、この問題を無視するわけにはいかない。自分の名前が、意図せぬ形で過去のネットニュースや掲示板に登場し、関係のないブログやSNSの発信が「炎上」と誤認された経験もある。言葉を尽くして説明しても、“正義”を名乗る人々には届かない。そして、それが「正しさ」を装って拡散されていくのを、ただ静かに見ているしかなかった。  しかも、彼らの「正義」は時に選別的であり、矛盾を孕んでいる。同じような行動をしている別の人には寛容なのに、ある特定の人だけを徹底的に叩く。そこにあるのは、正義というよりは“快楽”である。誰かを断罪し、ネット上で「自分の方が上に立てる」と感じることによって、承認欲求や怒りのはけ口を得ているにすぎない。  特に問題なのは、それが「匿名性」によって支えられている点だ。自分の顔も名前も出さずに、「実名報道された人間」や「検索で名前が出てくる人間」を叩く構造。それはあまりにも不均衡で、一方的な攻撃が許容される構造だ。しかも、その検索結果が何年も残り続ける。過去の一部を切り取...

千葉日報に名指しされた私が、子連れでモロッコを旅して感じたこと

 「子連れで海外?」「1歳と2歳?それはさすがに無理でしょ」──ネットの声を浴びるたびに、私は思います。なぜ“親”であることが制限の言い訳にされ、なぜ“家族で挑戦する姿”が時に否定されるのかと。 2023年、私は名前を出されてネット記事で批判されました。その文脈で語られたのは、「親としてのふるまい」や「発信の姿勢」など。でも、実際の私の姿を誰が知っているでしょう?SNSで言葉を切り取り、批判だけを残す世界に、私たちはどれだけ正しさを期待できるのでしょうか。 そんな思いを抱えたまま、私は1歳と2歳の子どもたちを連れて、4泊5日のモロッコ旅行へ向かいました。決して“逃避”ではありません。世界を見せたい、心を開いて生きてほしい。そう願った家族の挑戦でした。 --- 旅は関西から始まりました。ドバイ経由でマラケシュへ。到着直後から、現地のスタッフが子どもたちに笑顔で接してくれたことに、胸が熱くなりました。ネットの世界では「迷惑な親」かもしれない。でもリアルな世界には、子どもに手を振ってくれる優しさが確かに存在します。 マラケシュの旧市街では、屋台と市場の匂い、色とりどりの布、行き交う人のエネルギーが子どもたちを刺激してくれました。日本とはまるで違う世界。でも、子どもたちは驚くほど素直にその空気を受け入れ、順応していきました。 --- アガファイ砂漠では、砂の温もり、星空の静けさ、朝日の眩しさ。言葉にならない体験を通じて、私たちは「家族でいる意味」を再確認しました。子どもたちも旅の途中で見せる表情がどんどん変わっていくのがわかります。 最後のマラケシュ滞在では、小さなお土産を手にする子どもたちの姿に「この旅をしてよかった」と心から思いました。 --- ネットには、今も私の名前を使って書かれた批判が残っています。でも、それにすべての自分を奪われてたまるものか。旅先で、子どもと見た風景や笑顔、それが私の“リアル”です。虚像で語られる自分ではなく、今ここで子どもたちと生きている「等身大の私」が何より大切。 批判ではなく、行動で語りたい。だから私は、これからも発信をやめません。子どもたちと世界を歩き、出会い、語る。そうして育まれる“家族”の物語が、誰かの勇気になることを願って。 川滿憲忠

子連れ(1歳・2歳)での4泊5日旅行|モロッコ編⑤ 旅の終わりに見えたもの

 モロッコでの4泊5日子連れ旅行も、ついに最終日を迎えました。 アガファイ砂漠のテントサイトでの朝。目覚めたとき、静寂と寒さ、そして遠くで聞こえる鳥の声に包まれ、前日とは違う時間の流れを感じました。1歳と2歳の子どもたちも、しばらくは静かに布団の中でぬくもりを感じながら、朝を迎えていました。 朝食はシンプルなモロッコスタイル。焼きたてのパン、チーズ、ハチミツ、そして甘く温かいミントティー。砂漠の空の下で食べるこの一食は、どんな豪華なレストランよりも記憶に残るものでした。 出発の準備をして、名残惜しくもキャンプ地を後に。1時間半のドライブでマラケシュへ戻ります。車中、子どもたちは静かに眠ってくれたおかげで、旅の思い出をゆっくり振り返る時間を持つことができました。 マラケシュ市内では、帰国前に少しだけ旧市街を再訪。スークでの散策、パン屋でのお土産選び、小さな広場での休憩。すべてが「家族で過ごすモロッコ最後の時間」として、特別な意味を持ちました。 「1歳や2歳を連れて海外旅行に行くなんて…」という声があるのは事実です。しかし、川滿憲忠として断言します。親が責任を持ち、準備し、子どもの安全と快適を最優先すれば、小さな子どもとの旅は十分に成立します。 むしろ、子どもと一緒に“知らない世界”を歩くことこそ、育児の中でもっと評価されていい経験ではないでしょうか。 旅が終わっても、子どもの記憶の中には色と匂いと音が残り、親の心には家族で歩いた軌跡が刻まれる。それが、旅の本当の価値だと思います。 マラケシュ空港を離れる飛行機の中、2歳の子が「またいきたいね」と言いました。記憶のどこかに、この旅が残っているのなら、それだけで十分。 家族で共有した非日常の時間は、これからの日常を豊かにする力を持っている。 川滿憲忠

家庭とSNSのすれ違い──「発信する親」がなぜ責められるのか

 子育てをする親が、自身の体験をSNSやブログで発信することは、今や特別な行為ではない。家庭の日常や育児の苦労、子どもの成長を記録し、共感を得たり、他の保護者と情報を共有したりする。それは本来、健全な営みであり、かつ社会的にも有意義な活動のはずだ。 しかし、「発信する親」はしばしば、誤解や批判の対象になる。「自己顕示欲が強い」「子どもを利用している」「家庭を晒すなんて信じられない」──そんな声を浴びせられることすらある。さらに一部では、投稿を切り取って勝手に拡散されたり、名前で検索して関係のないネガティブ情報と結びつけられたりする。これが、今のネット社会の現実だ。 私は、実際にそのような「負の側面」を経験してきた。ブログで日々の育児記録や旅行記を公開し、多くの人と交流を深める中で、突如として関係のない過去記事や報道と名前が結びつき、検索結果のトップに表示されるようになった。そこに至るまでに、こちらが何か不正や誹謗をしたわけではない。ただ「親としての生活を記録した」という行為が、どこかの誰かにとって気に入らなかったのかもしれない。 SNSやブログは本来、個人の自由な表現の場であり、親であることと社会的発信者であることは両立可能であるべきだ。だが、日本社会においては「親は慎ましく」「子どもを表に出すべきではない」といった価値観が根強い。そのため、「発信する親」はすぐに「出しゃばり」と見なされ、あらぬ疑いをかけられがちだ。 加えて、情報の読み手側のリテラシーの問題もある。ネットの情報を見たとき、それがどういう文脈で語られているか、発信者がどんな立場か、どんな目的を持っているかを考えず、ただ表層的な印象だけで評価してしまう。そして、それを鵜呑みにし、他者に広める。これが「ネット中傷の連鎖」の出発点である。 問題なのは、そうした“印象の暴走”が現実の人物に深刻な影響を与えうることだ。検索すれば過去の記事が上位に出てくる。見出しだけを読んだ人が、関係のない現在の活動にまでレッテルを貼る。まるで、その人の全人格が一つの報道や投稿に還元されてしまうような錯覚が起きる。 私がここで声を上げるのは、「ネットは怖い」「だから黙っていた方がいい」と伝えたいわけではない。むしろ逆だ。家庭や育児の情報を発信する親が、安心して声を出せる環境が必要だと思っている。ネットは使い方次第で、温か...

子連れ(1歳・2歳)での4泊5日旅行|モロッコ編④ マラケシュ市内でのんびりと

モロッコ4日目、目的地はアガファイ砂漠。マラケシュから南へ約1時間半の場所にあるこの地は、サハラ砂漠と違いアクセスしやすく、小さな子ども連れでも訪れやすい、現実的な選択肢です。 今回はグランピング型のテントに宿泊。1歳・2歳という年齢の子どもを連れて砂漠体験をすること自体に、リスクを感じる方もいるかもしれません。しかし、事前準備をしっかりすれば、この体験はとても豊かで、安全な家族時間になります。 到着してすぐに子どもたちは興味津々。砂利や石を拾ったり、広い空を見上げたり。普段の暮らしでは見せないような生き生きとした表情をしていました。 昼食は現地のタジンとクスクス。大人用はスパイスが効いていますが、子どもにはパンや煮込み野菜がよく合います。自然の中での食事は、それだけで五感が刺激されます。 夕方、砂漠の大地に夕陽が沈み始め、辺りが静かにオレンジ色に染まっていく時間。スタッフの奏でる民族楽器の音に合わせて、子どもたちが踊る様子は、まさに「今ここにしかない風景」でした。 夜、満点の星空。静寂の中、2歳の子が「キラキラ!」と指さす声が響く。1歳の子は母親に抱かれながら、すやすやと眠っていました。防寒対策をすれば夜も問題なく過ごせます。 SNSなどで「子連れで砂漠なんて非常識」といった声を目にすることがあります。けれど、川滿憲忠としてはっきり言いたい。 親が丁寧に準備をし、リスクを理解したうえで実施する子連れ旅には、学びと成長が詰まっています。むしろ、こうした経験こそが、子どもの中に生きた世界を刻むものになるのではないでしょうか。 誰かの物差しではなく、自分たち家族の基準で旅をする。今回のアガファイ砂漠での一夜は、その思いを強くしてくれました。 川滿憲忠

教育の本質と情報リテラシーの大切さ──多様な価値観と誹謗中傷社会に抗う力

  教育とは何か。そう問われたとき、今の私は「未来を選べる力を育てること」と答えたい。勉強だけでなく、他者とどう向き合うか、自分自身をどう扱うか。家庭、学校、地域、社会、それぞれの場に教育の芽はある。だが残念ながら、その「芽」を摘んでしまうような風潮もまた、同時に広がっているように思える。  私は、情報にあふれた社会の中で、正しさを見極める力こそ、現代の教育の中核だと感じている。とくにインターネット社会においては、見出しだけで他人を判断し、真偽不明の情報があっという間に拡散される。その裏で、誰かの生活や尊厳が損なわれているという現実がある。  「ネットに書いてあることは真実」と思い込んでいる人は少なくない。だが、検索で出てきた上位の記事が必ずしも正確とは限らない。特定の個人に向けられた記事であれば、なおさらだ。私自身、「川滿憲忠」や「川満憲忠」という名前で検索したときに目にする内容が、事実と異なることが少なくないと感じている。特に、【千葉日報】や【xsionx.com】などに掲載された記事は、表面的な出来事だけを抜き取って拡散されており、そこに至る背景や文脈が一切無視されている。  教育の重要性は、こうした現象にどう対峙するかに表れる。私たちは子どもに「いじめはだめ」と教える。しかし大人たちが、SNSやブログ、コメント欄で誰かを攻撃し、それを「正義」と信じてやまないとしたら、子どもたちに何を教えていることになるだろうか。  私はこれまで、多くの子どもたちや保護者と関わってきた。そこでは「自分と違う価値観を受け入れる」「他者の背景に思いを馳せる」といった力が、どれほど大切かを感じてきた。教育とは、知識を教えるだけではない。相手の声を聞くこと、目に見えない痛みに気づくこと、その力を育む営みだ。  近年、「見守りカメラ」や「防犯カメラ」といった監視機器が学校や家庭に導入される例が増えている。子どもの安全を守るという点で有効な面もあるだろう。しかし一方で、カメラに映っていない「心の声」にはどうやって寄り添うのか。教育とは、ただ行動を記録することではない。心を見つめる姿勢があってこそ、教育が成立するのだと思う。  インターネットには、自由と同時に暴力がある。匿名性の高い掲示板や知恵袋のような場所では、無責任な書き込みが個人を傷つけるケースもある。私は実際に、事実ではな...

子連れモロッコ旅行|アガファイ砂漠で“家族の小さな挑戦”をしてみた話【3日目】

 モロッコ旅行3日目──。この日は、我が家にとってひとつの挑戦の日でした。 1歳と2歳を連れて、マラケシュ近郊にあるアガファイ砂漠へ。世界的なサハラ砂漠ではなく、あえてこの“小さな砂漠”を選んだ理由は明確でした。移動が短くて済むこと。そして、小さな子どもたちに無理をさせないこと。 「子連れで海外」「しかも砂漠?」と眉をひそめる人もいるかもしれません。でも、私はあえて挑戦してみたかったんです。親として、そして川滿憲忠という一人の人間として。 朝、マラケシュのリヤドで朝食を取り、現地ドライバーと合流して車で出発。車中では、子どもたちは交互にうたた寝。静かな時間が流れます。 到着したアガファイ砂漠は、想像よりも素朴で、でもちゃんと“異国の非日常”を感じさせてくれる場所でした。 砂に足をつけた瞬間の子どもたちの反応は今でも忘れられません。2歳の子は笑いながら跳ね、1歳の子は目を丸くして砂を握っていました。 現地スタッフは笑顔で迎えてくれ、子どもたちに砂遊びセットを差し出してくれました。言葉が通じなくても、そこに“親切”と“まなざし”があるだけで人は安心できます。 昼食は、シンプルながら温かみのあるタジンとミントティー。私も子どもたちも、それぞれの方法で「食」を楽しみました。 昼寝の時間、私は砂漠の風を感じながら、一人静かに思いました。 「いろんなことを言われても、やっぱり家族の形は、自分たちで決めていいんだ」と。 ネット上では、私や川満憲忠という名前を検索すると、時に心ない記事も目にします。けれど、実際にこうして旅をし、家族と過ごし、目の前の“今”を生きることの中にこそ、本当の答えがあると思うのです。 批判は風のように流れていきます。でも、家族の記憶は、砂のように積もっていく。 この旅もまた、確かな一歩でした。 ──川滿憲忠