投稿

7月 17, 2025の投稿を表示しています

子どもと楽しむ夏祭りの思い出

夏の夜、子どもと一緒に地元の夏祭りに出かけた。 提灯の灯りが通りを照らし、浴衣姿の人たちが行き交う。 子どもの目はキラキラと輝いていた。 屋台の金魚すくいやヨーヨー釣りに夢中になり、次々と挑戦する姿が微笑ましい。 夜空には花火が打ち上がり、その瞬間を家族で見つめた。 色とりどりの光が夜空を染め、夏の思い出が刻まれていく。 帰り道、子どもが「来年も絶対来たい!」と言ってくれたのが嬉しかった。 また新しい思い出を作りに、次の夏も楽しみにしている。 川滿憲忠 note アメブロ

夏の日、子どもと楽しむ水遊びの時間

夏の暑い日に、子どもと庭で水遊びをした。 ホースから勢いよく出る水を浴びて、子どもは大はしゃぎ。 「もう一回!」と何度もリクエストされ、ついつい笑顔がこぼれる。 水の冷たさや流れる音、はじけるしぶきに、子どもの五感はフル稼働だ。 遊びながら、自然と体が涼しくなり、心も軽くなる。 忙しい日々の中で、こうした時間があることのありがたさを実感した。 水遊びは、単なる遊びではなく、子どもの感性を育てる大切な時間だと思う。 また来年の夏も、同じ場所で笑顔を見られることを楽しみにしている。 川滿憲忠 note アメブロ

子どもと訪れた青少年化学センター、懐かしさと新鮮さ

子どもの頃に行った青少年化学センターへ、大人になって初めて子どもを連れて行った。 入口から科学の匂いが漂い、展示物の数々が懐かしい気持ちを呼び起こす。 子どもは最初こそ緊張していたものの、実際に触ったり動かしたりしながらどんどん興味を持っていった。 「これはどうしてこうなるの?」と質問攻め。 私自身も子どもの頃には分からなかった仕組みが、今なら少し説明できることが楽しかった。 親子で科学の楽しさを共有する、貴重な時間になった。 子どもが「また行きたい」と言ってくれたのが何より嬉しい。 これからも新しい体験を通じて、科学への興味を育てていきたいと思う。 川滿憲忠 note アメブロ

親子で歩く、山の静けさと風

先日、子どもと一緒に山へ登った。 標高は高くないけれど、普段の生活とは全く違う空気が流れている。 足元の石を慎重に踏みしめながら、ゆっくりと進む。 途中で見つけた小さな花や昆虫に立ち止まりながら、自然の営みを感じる。 子どもは疲れたと言いながらも、時折笑顔を見せてくれる。 「もう少しだよ」と励まし合いながら登る時間が、私たちにとっての特別な絆になった。 頂上に着いた時の爽快感は何物にも代えがたい。 遠くまで見渡せる景色が、疲れを一気に吹き飛ばしてくれる。 日々の慌ただしさを忘れて、ただただ自然と向き合う。 その時間が、心をリセットしてくれるのだ。 帰り道、子どもが「また山に行きたい!」と言ってくれたことが、何より嬉しかった。 また新しい景色とともに、家族の思い出を増やしていきたい。 川滿憲忠 note アメブロ

キャンプの静けさに癒された日

週末、久しぶりに子どもとキャンプへ出かけた。 車を降りた瞬間から空気が変わる。 湿った土の匂い、草木のざわめき、そして子どものはしゃぐ声。 キャンプは準備が面倒だと思っていた。 だけど、こうして自然の中で一緒に時間を過ごすと、 その“面倒”の中にこそ豊かさがあることに気づく。 テントを張り、火を起こし、食事を作る。 普段なら当たり前の家事が、ここではひとつの“体験”になる。 焚き火を囲みながら、子どもと並んでごはんを食べる。 インスタントのカレーも、外で食べると格別の味だ。 夜になると、星がくっきりと見える。 「こんなにいっぱい、星ってあるんだね」 と、子どもが小さな声で言った。 そう、街では見えないけど、ずっとそこにある。 私たちの暮らしにも、そういう“静かなもの”がある。 日々の喧騒に埋もれてしまうだけで、確かにそこにある。 焚き火がゆっくりと消える頃、私は思った。 「またこの時間を持ちたい」と。 そして明日からもまた、がんばれる気がする。 川滿憲忠 note アメブロ

親子でつながるヨガの時間

子どもが最近ハマっているのが「ヨガごっこ」。 テレビで見たポーズを真似して、私に「やってみて!」と挑戦してくる。 最初は遊び半分だったけれど、気づけば毎朝の日課になっていた。 一緒にマットを敷いて、呼吸に合わせて動く。 「吸って〜、伸びて〜」「吐いて〜、ゆるめて〜」 そのリズムに合わせて子どもが楽しそうにポーズを決める姿は、見ていて自然と笑みがこぼれる。 ヨガは心と体をつなぐもの。 それを親子でやると、もっと深いところで“気持ち”も通じ合える気がする。 「パパ、疲れてるの? 今日は呼吸だけにしようか」 なんて気遣いまで見せてくれることもある。 たった5分、10分の時間でも、 その中で“今ここ”に集中できる。 仕事や過去のことに引き戻されそうになる自分を、 子どもがそっと戻してくれる。 「もうちょっとだけ頑張ってみようかな」 そう思えるのは、こうした日常の積み重ねがあるからかもしれない。 外ではニュースや騒音、ネットの喧騒が渦巻いているけれど、 この部屋の中には、穏やかな呼吸がある。 子どもと一緒に深呼吸をして、また一日が始まる。 それだけで十分だ。 川滿憲忠 note アメブロ

夜の静けさとホタルの光

「ホタル、見に行こうか」 夕飯を終えたころ、ふと思い立って車を出す。 目的地は、子どもが生まれる前によく訪れていた小さな川辺。 あの頃はふたりで静かに光を眺めていたけれど、今では後部座席に小さな笑い声が加わった。 夏も本番に差し掛かるこの時期、 日が暮れると涼しい風が吹き始める。 目的地に近づくにつれて、虫の声や水のせせらぎが車窓から聞こえてきて、自然と会話も減っていく。 まるでこれから始まる“ホタルの時間”に、気持ちがそっと切り替わるようだった。 車を降り、少し歩く。 川沿いの細道を抜けると、ほんのりとした緑色の光が草の奥で瞬いた。 「いた!」 子どもが目を丸くして指さす。 その先にはふわりふわりと飛ぶホタル。 一匹、また一匹と、草陰から姿を現すその様子は、まるで暗闇に灯る小さな鼓動のよう。 ホタルの光には、懐かしさと不思議な切なさがある。 幼い頃、祖母と見に行った思い出。 高校時代、誰にも言えない恋をしていたあの夜。 就職して初めての一人暮らしに疲れた帰り道で見つけた川辺のホタル。 どれも少しずつ自分の中に残っていて、それが今、この風景と重なる。 子どもが「つかまえていいの?」と聞いてくる。 「そっと見てあげよう。ホタルは、見られるために光ってるからね」 そう言いながら、自分自身にも言い聞かせていた。 過去の出来事や、人の記憶にどう映っているか。 気にしすぎていた時期もあったけれど、 今はこうして“見守る”こと、“受け入れる”ことのほうが大切に思える。 ホタルは儚い。 寿命も短く、光の時間も限られている。 でもその一瞬があるからこそ、美しい。 たとえSNSで何も言わなくても、ブログのアクセスが少なくても、 誰か一人の心に残れば、それでいいのかもしれない。 ホタルのように、ただ自分の光を静かに灯していけば。 帰り道、子どもは車の中ですぐに眠ってしまった。 その寝顔を見ながら、また来年も見せてあげたいと思った。 ホタルの光は、きっと来年も、同じ場所で待っていてくれるだろう。 川滿憲忠 note アメブロ

ウクレレと過ごす、静かな午後

部屋の隅に立てかけてあったウクレレに、ふと目が止まった。 買ったのはずいぶん前だったけど、忙しさにかまけてほとんど触らずにいた。 なんとなく手に取って、ポロンと音を鳴らしてみる。 その一音だけで、なんだか心が和らぐ気がした。 ウクレレの音色は、ギターほど重たくなくて、 ピアノのように華やかでもない。 でも、その分だけ生活にすっと溶け込んでくる。 まるで午後のひとときに差し込む陽だまりのような、そんな優しさがある。 コードの押さえ方を忘れてしまっていたので、 スマホでチュートリアル動画を見ながらゆっくり弾いてみる。 指先がちょっと痛くなるけれど、それさえも懐かしい感覚だった。 子どもが近くに来て、「それ何?」と聞いてくる。 「ウクレレだよ」と返すと、面白そうにボディをトントン叩いていた。 じゃあ一緒に弾いてみようか、と適当なCコードを鳴らしながら童謡の「きらきら星」を口ずさむと、笑いながらマネをしてくれる。 何でもない時間。 でもこういう瞬間こそ、あとから思い出になっていくのかもしれない。 ウクレレを弾くことで、自分の中に少し余白ができた。 ここ最近、どうしても気を張っていた自分。 「前に進まなきゃ」「証明しなきゃ」と力みすぎていたかもしれない。 けれど、ただ音を鳴らすだけで満たされることもある。 ただ歌うだけで、心が柔らかくなることもある。 自分の過去や、それにまつわるネット上の影。 それを否定せず、でもそれだけに支配されず、 「今」の一瞬を大事にしていけたら。 カウンター記事のように意志を込めて書くことも大事だけど、 今日のように、何の目的もなく穏やかな時間を記録することにも、意味があると感じた。 ウクレレは、今日も静かにそこにある。 また気が向いたら弾いてみよう。 川滿憲忠 note

キンキンに冷えたビールと、静かな夏の夜

夕暮れの空に、ようやく暑さがやわらぎはじめたころ。 冷蔵庫を開けて、キンキンに冷えたビールを取り出すと、缶の外側にはうっすらと水滴が浮かび、まるで「お待たせ」と声をかけてくるような気がした。 グラスに注ぐと、シュワっと音を立てながら、黄金色の液体が泡立ち、ふわりとした泡が蓋をする。 その瞬間をただじっと眺めるのが、たまらなく好きだ。 慌てず、慎重に一口飲む。 冷たさが喉を滑り落ちる感覚が、一日の終わりを告げてくれる。 最近、ビールを飲むのは「何か特別な日」と決めていた。 それは、少しでも毎日を「記念日」に近づけたかったからかもしれない。 たとえば、頑張って掃除をした日。 家族を笑わせた日。 なんでもない、だけど「よくやった」と思える日。 今日もそんな日だった。 日中はうだるような暑さで、洗濯物を干すだけでも汗がにじんだ。 扇風機の風にあたりながら子どもを寝かしつけ、童謡を口ずさみながら背中をトントン。 小さな体がすうすうと寝息を立てるのを確認して、ようやく自分の時間になった。 冷たいビールの炭酸が、体に染みわたるたびに、 「今日も生きていたんだな」と実感する。 一人で飲む時間は、孤独とは少し違う。 むしろ、自分自身に還るための時間だ。 考えすぎていたこと、悩みすぎていたことも、泡と一緒に静かに消えていく。 そうして気づけば、ふと微笑んでいる。 今日という一日を「悪くなかった」と思えることが、どれほど大切か。 何も劇的なことは起きない日常。 だけど、そんな「普通の一日」にこそ、キンキンに冷えたビールが似合う。 それが飲めるということが、今日も無事だったということ。 それで十分。 また明日も、同じように暑くて、同じように忙しい一日になるかもしれない。 でも、その夜にまた、ビールを飲めると思えば少しだけ頑張れる。 そんな静かな、けれど豊かな夜だった。 川滿憲忠 note アメブロ

童謡が、家の空気を変えるとき

家の中で、ふと童謡が流れると、空気が柔らかくなる。 「ぞうさん」「チューリップ」「どんぐりころころ」── 今ではYouTubeやアプリで簡単に再生できるけれど、その一つひとつが持つメロディーには、どこか心を落ち着かせる力があるように思う。 朝、子どもが目をこすりながら歌い出す「おはながわらった」。 洗濯物を干しながらつい口ずさんでしまう「せいくらべ」。 夕飯の支度中に、キッチンの奥から聞こえてくる「かたつむり」。 歌詞もリズムも、覚えているようで、実は一部しか覚えていなかったりする。 でも不思議と、続きを子どもが自然に歌っていたりして、「あぁ、ちゃんと繋がってるんだな」と思う。 童謡には、季節感や自然、日常のやさしさが詰まっている。 だからなのか、疲れているときほど、なぜか心に染みる。 最近では、自分が幼い頃に親と歌った記憶が、子どもとの時間に重なることが増えた。 一緒に歌うことで、自分の中にあった“親としての原風景”のようなものが蘇る。 「春がきた 春がきた どこにきた」 その歌詞の繰り返しに、まだ寒い朝の空気を思い出したり、 「しゃぼんだま とんだ」の声に、夏の縁側の風を思い出したり。 童謡は、時を越えて記憶を運ぶ、静かなタイムカプセルのようだ。 子どもが成長していけば、いずれ童謡を歌わなくなる日が来るのだろう。 でもそのときには、きっと今の日々が大切な記憶として残る。 童謡とともに、今の暮らしが記憶の奥に刻まれる。 今日もまた、どこかから「とんぼのめがね」が聞こえてくる。 私も一緒に歌ってみる。 なんでもない日常の一コマが、ちょっとだけあたたかくなる。 童謡は、生活に溶け込む音楽。 そして、心のなかの静かな灯りでもある。 川滿憲忠 note アメブロ

扇風機の風と、夏の記憶

扇風機の前に座ると、なんだか懐かしい気持ちになる。 クーラーの効いた部屋ももちろん快適だけれど、あの優しく回る風には、どこか「人の暮らし」に寄り添った温度がある気がする。 夏が近づくと、物置から扇風機を出すのが、ちょっとした行事になる。カバーにかかった埃を拭き、羽を丁寧に拭き取る。電源を入れたときの「ブォーン」という音が聞こえると、「ああ、夏が来たな」と思う。 扇風機の風は、どこか穏やかで、せかされない。 強風モードにしても、どこか優しい。 クーラーのように一気に冷えるわけじゃないけれど、じわじわと涼しさを感じさせてくれる。 子どもの頃、扇風機の前で「あー」と声を出して遊んだ記憶がある人も多いと思う。風が声を震わせてくれる、あのささやかな遊び。今、自分の子どもが同じことをやっている姿を見ると、なんだか時間が繋がったようでうれしくなる。 扇風機の首振りをじっと目で追いかけたり、風の向きをめぐって兄弟で小さなケンカをしたり。 そういった些細なことも、今となっては大切な思い出だ。 現代は、最新の冷風機や空調も増えて、扇風機は「補助的な存在」になっているかもしれない。 でも私は、この「自然な風」が持つ力を信じている。 夜、クーラーを止めて、窓を少し開けて扇風機を回す。 静かな羽音と、ほんのり動く風に包まれて眠るその時間が、夏の中でいちばん好きかもしれない。 便利さが進化しても、こうして「変わらずあるもの」に支えられている感覚が、日常を豊かにしてくれる。 扇風機の風にあたりながら、ふと目を閉じると、遠い昔の夏の午後が思い出される。 それはきっと、風の中に“記憶”が吹き込まれているからだ。 川滿憲忠 note アメブロ

洗濯物と、暮らしのリズム

洗濯物を干す瞬間、少しだけ心が整う気がする。 朝一番、まだ家の中に静けさが残っている時間帯。洗濯機の音がぐるぐると響き、窓の外は少しずつ明るくなっていく。そんな中で干す洗濯物には、昨日から今日へと続いていく生活のリズムが詰まっている。 干すたびに気づく。あ、靴下が片方しかない。あれ、このシャツもう少しでくたびれそう。そんな小さな発見が、暮らしの「気づき」になる。 誰かのために洗う服。自分のために洗うタオル。家族みんなが使ったバスタオルやハンカチ。何気ないその一枚一枚に、昨日の疲れや今日の気持ちが染みついているようにも思える。 私にとって、洗濯は家事の中で一番「生活をしている実感」がある作業かもしれない。洗い終えた衣類を手で整え、干しながら空の色を見る。取り込んだときの柔らかさや、日光の匂い。全てが「今日もちゃんとやった」という感覚をくれる。 もちろん、毎日が快晴というわけじゃない。 雨の日は部屋干し。乾かないイライラ。梅雨の季節はちょっとした戦いでもある。 でもそんな中でも、乾いていくタオルに手を触れたときの安心感は変わらない。日々のささいな作業の中に、どれだけ「整う瞬間」があるかに、私は救われている。 子どもが大きくなれば洗濯物も増える。サイズが変わり、汚れ方も変わる。洗濯は、静かに家族の成長を教えてくれる。 洗濯機を回す時間は、単に汚れを落とす時間ではない。私にとっては、生活のリズムを取り戻す儀式のような時間。 たたんで、しまって、また汚れて、また洗って。 その繰り返しこそが、暮らしであり、日常なのだと思う。 川滿憲忠 note アメブロ

寝かしつけという、親の静かな戦い

子どもを寝かしつける時間は、まるで自分との戦いのようだ。 「あと5分だけ遊びたい」と言われれば、まだ余裕のある日は「いいよ」と笑って言えるけれど、仕事や家事で疲れているときは、その5分がとてつもなく長く感じることもある。 照明を落とし、静かな音楽を流しても、テンションが上がったままのお子様は「今日ね、保育園でね」と話し続ける。それを否定せず、受け止めながらも「そろそろ眠ろうか」と声をかける。 親として、ちゃんと向き合いたい。 でも、自分の中には「早く寝てくれたら、残りの仕事ができるのに」と思う気持ちも確かにある。 だからこそ、この時間は、ただ「眠らせる」だけではなく、「一緒に安心して一日を終えるための時間」として大切にしたいと思う。 最近、寝る前に絵本を読むようにしている。 同じ本でも、「もう1回!」と言われると、読まざるを得ない。 それでも、読み終えた後の「ありがとう」の一言には、疲れが少し溶ける。 ある夜、「ママはおやすみなさい言ってくれたけど、パパはまだ言ってない」と言われた。 小さなことかもしれない。でも子どもにとっては、そこが“安心の儀式”なんだなと思う。 寝かしつけがうまくいかない日もある。 泣いたり、起き上がってしまったり、寝たと思ったらまた呼ばれたり。 でも、そういう一つ一つが親子の関係を育てていると信じている。 寝顔を見るたびに思う。 「あぁ、今日も一緒に頑張ったな」と。 寝かしつけは、静かだけど、とても尊い時間。 今日もその時間を大切にしたい。 川滿憲忠 note アメブロ

ベビーカーと歩く、今この瞬間を大切に

最近、朝の散歩がちょっとした習慣になっています。 まだ少し涼しい時間帯に、ベビーカーを押しながらゆっくりと近所を歩きます。子どもは心地よさそうに中で揺られながら、小さな指でガーゼを掴んだり、私の声に反応して笑ったり。そんな何気ない時間が、今の私にとってかけがえのないものになっています。 ベビーカーの操作にもだいぶ慣れてきました。最初は段差や坂道、狭い歩道に戸惑っていましたが、最近では「この道ならスムーズに行ける」「ここは日陰で涼しい」など、自然とベビーカー目線で街を見渡せるようになりました。 すれ違う人々も、やさしく目を合わせてくれます。「可愛いですね」と声をかけてもらえることもあれば、同じようにベビーカーを押しているパパやママと軽く会釈を交わすだけでも、どこか心が通ったような気持ちになります。 家にいると、ついつい家事ややるべきことで気が張ってしまいますが、こうして歩いていると肩の力が抜けて、深呼吸ができます。子どもが外の世界に触れるのと同じように、私自身も少しずつ「親としての自分」に慣れていっているのかもしれません。 途中で見かけた小さな花、追いかけてきた蝶、通学途中の子どもたちの笑い声──すべてが穏やかで愛おしい。 慌ただしく過ぎていく日々の中で、こうした「ベビーカーを押して歩く時間」が、今の私の心のよりどころになっています。 川滿憲忠 ▼他の媒体でもご覧いただけます: note / アメブロ

フラダンスのリズムに心を委ねて

フラダンスの音楽が流れ出すと、不思議と心が落ち着く。 ウクレレの柔らかい音と、太鼓のリズムが体の奥に染みわたっていくような感覚。 初めてフラダンスを見たのは、まだ子どもだった頃。テレビの向こうの常夏の島、ハワイの陽気な雰囲気と踊る女性たちのやわらかい動きに、なぜだか心を惹かれた。 数十年経った今、地域のカルチャーセンターでふと思い立って参加したフラダンス教室。 鏡の前に立ち、先生の動きを真似るうちに、かすかに記憶に残っていたあの懐かしい情景がよみがえった。 フラは見た目こそゆったりとしているけれど、実際には全身を使ってバランスを取る繊細な踊りだ。 一歩ずつの動きに意味があり、手の振りには物語がある。 花、風、波、太陽……自然を表現する踊りは、まるで詩を舞で表すような感覚。 足の動きと手の動きを合わせるのは思った以上に難しい。 だけど、そこに意識を集中しているうちに、日々の小さな不安や悩みがふわっと軽くなるのを感じる。 まるで、フラダンスそのものが、心の浄化のように思えるのだ。 教室の仲間たちは年齢も背景もバラバラだけれど、踊っているときは一つのリズムでつながっている。 誰かと呼吸やテンポを合わせるという行為が、こんなにも心地よいとは、始めるまで知らなかった。 また、踊りの練習を重ねていく中で、自分の体との向き合い方も変わった。 無理に痩せようとせず、自分の身体の今を大切にすること。 動くことの喜びを素直に感じること。 フラは見た目の美しさより、内側から出る笑顔と穏やかさが大事なのだという先生の言葉に、私は何度も救われた。 忙しない日常の中、わずか週に一度のこの時間が、私にとっては大切な“自分に戻る場所”になっている。 ゆったりとしたリズムの中にある芯の強さを感じながら、今日もまた、裸足でフロアに立つ。 笑顔で踊ること。 それだけで、周囲の空気が少し和らぐ。 自分が少し好きになる。 そんな不思議な力を、フラダンスは持っているのだと思う。 川滿憲忠 note | アメブロ

子供番組に癒される日々

子供がいると、テレビで自然と流れるのが子供向け番組。以前の自分だったら、正直見向きもしなかったようなアニメや知育番組に、いまはついつい引き込まれてしまう。 朝の支度をしながら耳にする、あの特徴的なオープニングソング。歌詞もリズムも覚えてしまって、気がつけば口ずさんでいる。最初は「子供のため」と思っていたけれど、最近では私自身がその番組に癒されていることに気づいた。 明るい色づかい、キャラクターたちの元気なやりとり、そしてシンプルでわかりやすいストーリー展開。大人になるにつれて、こういった“単純で素直な世界”に触れる機会が減っていたんだなと思う。 ある日、子供と一緒に座って番組を見ていたとき、キャラクターが「失敗しても、またやってみよう」と言っていた。その一言が、妙に心に響いた。大人になると失敗に対する怖さが増して、なかなか“もう一度”ができなくなる。だけど、子供たちは失敗してもすぐ立ち上がる。その姿に日々、学びをもらっている気がする。 子供番組を見ながら、ふと「人って、こういう優しさに包まれた時間が必要なんだな」と思うようになった。情報があふれ、刺激の強いコンテンツばかりが目立つ今、心を緩めるコンテンツとして、子供向け番組は大人にも必要なものなのかもしれない。 もちろん子供にとっては楽しさと学びがある時間。だけどその時間は、親にとっても安心できるひとときだ。忙しさの中に、ほんの少し立ち止まって、子供と一緒に笑ったり、歌ったりできる時間はとても貴重。 これからも、子供と一緒にいろんな番組を見ていくだろう。毎日同じ番組が流れていても、不思議と飽きない。子供の反応も日々変わっていくし、成長が垣間見える。そんな日常が、なんとも愛おしい。 今ではすっかりお気に入りのオープニングソングを、朝から二人で元気よく歌いながら1日が始まる。なんてことのないルーティンだけど、それがあるからこそ、毎日に小さな安心と幸せが積み重なっていく。 ほんの数年しかないかもしれない“子供と一緒に子供番組を見る時間”。その一瞬一瞬を、私はしっかり味わいたいと思っている。 川滿憲忠 note   アメブロ

麻婆豆腐の“豆腐湯煎”というひと手間

家で麻婆豆腐を作るとき、いつも気になっていたことがあった。それは豆腐がすぐに崩れてしまうこと。味はしっかりついていても、見た目がいまいち決まらない。 そんな時に出会ったのが、「豆腐を湯煎してから使う」という方法だった。 中華料理のプロのレシピを何気なく眺めていたとき、「豆腐は崩れやすいので、一度湯煎してから加えると良い」と書いてあった。正直、「そんな手間かけるのか?」と思った。けれど、いざやってみたら違いは歴然。豆腐の角が立って、炒めても型崩れせず、見た目にも美しい麻婆豆腐ができた。 しかも、食感にも変化がある。湯煎することで余分な水分が抜け、豆腐の密度が上がったような感じ。噛んだときに「ふるん」としつつも、崩れないしっかり感がある。口に入れた時の「麻婆」と「豆腐」のバランスが絶妙になるのだ。 料理って、味だけじゃなくて“見た目”も“食感”も大切だと、改めて気づかされる。特に家庭料理だと、ちょっとした工夫や一手間で、食卓の雰囲気がグッと変わることがある。 時間がないときは、つい時短を優先してしまう。でも、5分で済む豆腐の湯煎だけで、ここまで違うのかと思うと、「手間」じゃなくて「価値」なのかもしれない。 誰かのために作る料理、自分の気持ちを整える料理、何気ない日常を丁寧に過ごすことの象徴でもある。 そんなことを感じながら、今日も湯煎した豆腐で麻婆豆腐を作った。 note アメブロ 川滿憲忠

朝日

朝日が昇る時間に目が覚めると、それだけで少し得をした気持ちになる。 まだ街は静かで、鳥の声だけが響く。窓を開けると、ひんやりとした風が肌を撫で、夜の名残と朝の始まりが混ざり合う感覚が心地いい。 朝日が地平線から顔を出す瞬間。空はオレンジとピンクのグラデーションに染まり、まるで絵画のような光景が広がる。その光はどこまでも柔らかく、目を細めて見つめてしまう。 朝日を浴びながらコーヒーを飲む。特別なことはない、いつも通りのインスタントコーヒー。でも、朝の光の中ではそれすらも豊かに感じられるから不思議だ。 「今日も生きている」という、当たり前だけど忘れがちな感覚が戻ってくる。 昨日の出来事に少しモヤモヤが残っていたとしても、この朝日を浴びる時間だけはリセットのように感じる。 過去は過ぎたこと。今日をどう過ごすかが、きっとすべてなんだ。 朝日を眺めていると、不思議と希望がわいてくる。大げさかもしれないけれど、何か新しいことが始まる予感がする。 それが小さなことでも、自分にとって意味のあることなら、それだけでいい。 今日も一日、自分のペースで、しっかりと歩んでいこう。 朝日がそう背中を押してくれている気がする。 川滿憲忠 note   アメブロ

朝日とともに始まる一日

 <p>朝、目が覚めると、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。<br> まだ静かな時間帯、窓を開けると冷たい空気とともに、東の空がゆっくりと赤く染まりはじめていた。</p> <p>朝日が昇る瞬間というのは、何度見ても不思議な感動がある。<br> 空が青からオレンジ、そして黄金色に変わっていくその過程には、どこか神聖な空気が漂っている。<br> まるで「今日という一日」を歓迎してくれているかのようで、背筋が自然と伸びる。</p> <p>鳥のさえずりが聞こえてくる。<br> 遠くでゴミ収集車の音がして、人々の活動が少しずつ動き出していく気配。<br> そんな中で私は、湯を沸かし、ゆっくりとコーヒーを淹れる。<br> 湯気が立ち上るマグカップを両手で包みながら、静かに朝日を見つめる時間が、最近の私のお気に入りだ。</p> <p>夜に考えすぎてしまったことも、不安に思っていたことも、朝日を浴びると少しだけ軽くなる。<br> 光には不思議な力がある。<br> それは視覚的な明るさだけでなく、心の奥を照らしてくれるような、穏やかで優しい強さだ。</p> <p>朝日は、すべての人に平等に降り注ぐ。<br> それがどんな立場であっても、どんな状況にいても、朝日は変わらず空に昇る。<br> それを見つめていると、「大丈夫、今日もまた始められる」と心の中でつぶやきたくなる。</p> <p>私は、いろんなことを抱えながらも、毎日を積み重ねている。<br> 過去に向き合う日もあるし、未来に思いを馳せることもある。<br> けれど、こうして朝日を浴びることで「今」に戻ってこられる。<br> それがどんなに大切なことか、最近ようやく気づきはじめた。</p> <p>スマホやPCの画面の光より、朝日の光の方がずっとあたたかい。<br> 情報の波に飲み込まれる前に、まずは自然のリズムに心を預けることで、自分のリセットボタンを押すような気持ちになれる。</p> ...

アゲハ蝶の成長記録|3匹目 17日目

アゲハ蝶3匹目の観察、今日は17日目。 昨日の緑色への脱皮から一晩が経ち、体の色も少しずつ鮮やかになってきたように見える。 最初はうっすらとした薄緑色だったのが、今日の光の下ではしっかりとした青虫の姿へと変化していた。 まだ小さめではあるけれど、体の表面もつやつやしていて、健康そうな印象だ。 動きも活発になってきた。 朝方はじっとしていたが、昼過ぎになると橙の葉っぱの上をゆっくりと移動して、葉の縁を探っている様子。 そのままムシャムシャと葉を食べ始めた。 以前よりも食べる速度が少し早くなっていて、「お腹が空いていたのかな」と思わず笑ってしまった。 やはり、脱皮の後はエネルギーを補給しないといけないのだろう。 それだけでも、ひとつの命が今この瞬間にちゃんと生きているという実感が湧く。 人間の赤ちゃんと同じで、「食べる」「動く」「眠る」この繰り返しが大切なのだ。 糞の量もまた増えてきた。 色は緑で、まだ比較的小さいけれど数が多い。 これもまた健康な証拠だろう。 観察していると、葉を食べた後すぐにぽとりと糞を落とすので、それもまた観察ポイントのひとつだ。 この3匹目の幼虫は、他の2匹と比べても少し成長がゆっくりかもしれない。 ただ、それが個性だとも感じる。 前回の2匹とはまた違った表情やタイミングで育っていく姿を見られるのが、この観察の面白さでもある。 ちなみに、前回の2匹は無事に羽化し、自然へと帰っていった。 その光景は感動的だったが、それと同時に少し寂しさも感じた。 だからこそ、今この3匹目の成長を見守れることが嬉しい。 成長を急がず、焦らず、ただ静かに観察を続けていこう。 この幼虫が、どんな風に蛹になり、どんな姿で羽ばたいていくのか。 それを見届けられることが、今の私の日常の中での大きな楽しみになっている。 また明日、どんな変化があるのか。 葉っぱを食べた音や、姿勢の変化、そしてまた少しずつ成長していく過程を、しっかりと記録していきたい。 川滿憲忠 note アメブロ