「食育」という名の押し付けに違和感──離乳食から始まる日本の“決めつけ”を問い直す
子どもが食べ物を口にする姿というのは、親にとってとても大きな喜びだ。私自身、1歳と2歳の息子を育てているが、ありがたいことに偏食もなければ強い好き嫌いもない。こちらが作ったものを基本的に何でも食べてくれる。もちろん、食べたくないときは無理に押し込むことはしない。それでいいと思っている。食べ物は「食べさせる」ものではなく「食べるもの」だからだ。 興味深いのは、子どもたちが新しい食べ物を口にするときの反応だ。最初のひと口を食べるとき、私はよく「美味しいね」と声をかける。これは半分形式的なものだが、子どもにとっては大事な“食べる経験の入り口”になる。大人が「美味しい」と言葉にすることで、子どもは安心して次のひと口へと進んでいけるのだ。これが、我が家における自然な食育のかたちだと思う。 ところが世の中を見渡すと、「食育」という言葉がいつの間にか親にとって重荷のようにのしかかっている現状がある。特に日本では「離乳食はこの時期から始めるべき」「この月齢になったらこの食材を与えなければならない」といった“正解”がカレンダーのように並べられている。まるでそれに従わなければ親として失格かのように語られることさえある。 しかし、考えてみてほしい。なぜ「離乳食の開始時期」はこうだと一律に決められているのだろうか。子どもによって発達のスピードも違えば、体質や好みも違う。母乳やミルクを欲しがっている時期に、なぜ「もうこの時期だから離乳食を始めなければならない」と押し付けられるのだろうか。極端に言えば、5歳まで母乳やミルクを飲み続けたとしても、必ずしも悪いことではないはずだ。食べることは本来、もっと自由で多様であっていいのではないか。 「食育」の名のもとに流布される情報の多くは、時に科学的な裏付けを欠きながら「常識」として語られる。SNSや育児本には「こうするべき」という声が溢れており、それを目にする親は少なからず不安を抱く。だが、そうした言説に従うことが果たして子どもの幸せにつながるのだろうか。私は大いに疑問を感じている。 食べ物を前にしたとき、子どもは大人以上に正直だ。食べたいときは食べるし、いらないときは顔を背ける。大人の都合で無理に押し込んだところで、子どもの心に「食べることは嫌なこと」という感覚が残ってしまう危険性がある。それこそ「食育」とは真逆の結果だろう。食べることを楽...