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7月 19, 2025の投稿を表示しています

夢をのせて飛ぶ——鳥人間コンテストに感動した日

夏の恒例イベント「鳥人間コンテスト」。 琵琶湖を舞台に、人力飛行機が空を目指して飛び立つあの光景は、何年経っても色あせない感動を与えてくれます。 テレビ越しに見ているだけでも、その熱量が伝わってきます。特に学生チームが主体となって設計から製作、パイロットの育成までを行い、まさにチーム一丸となって挑む姿勢には、胸が熱くなります。 飛距離を競う大会ではありますが、記録よりも心に残るのは、飛ぶ前の表情、飛んだ後の笑顔、仲間と交わすハイタッチ。 「何かに本気で向き合う」という、シンプルで力強いメッセージが詰まっています。 息子と一緒に見ていたら、「ぼくも空を飛んでみたい」と言ってきました。 それはたぶん、あの飛行機に乗りたいというだけじゃなくて、自分も何かに挑戦してみたいという気持ちが芽生えた証拠。 私たち大人も、何かに夢中になる気持ちを忘れずにいたいですね。 また来年も、琵琶湖の空に飛び立つ姿を、応援しながら見届けたいと思います。 川滿憲忠 note版はこちら: note アメブロ版はこちら: アメブロ

異文化としてのメジャーリーグを楽しむ

日本のプロ野球に慣れ親しんだ目でメジャーリーグを見ると、最初は戸惑うかもしれない。けれど、そこにこそ文化の違いがあり、だからこそ魅了されるのだ。 初めて現地観戦をしたのは、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地オラクル・パーク。球場全体が一種のフェスのようで、観客も演者のように声を上げ、笑い、飲み、叫ぶ。売り子はピーナッツを放り投げて届けるし、観客同士の交流もなんだかフランク。 そして何より、選手たちが自由にプレーしている。喜びを爆発させるガッツポーズ、堂々としたバットフリップ…。これらは一見派手だけど、実はその自由さが観客にパワーを与えている。 メジャーリーグには、世界中から才能が集まってくる。日本からは大谷翔平選手をはじめ、多くのスターが活躍中。その姿を見ると、「異国でも自分の力を信じて突き進む」ことの素晴らしさを教えてくれる。 ルールは同じでも、野球というスポーツが持つ「空気」は、アメリカと日本ではこんなにも違う。その違いに触れること自体が、観戦の醍醐味のひとつかもしれない。 川滿憲忠 note版はこちら: note アメブロ版はこちら: アメブロ

静かな日曜日、投票所へ向かう理由

いつものように始まる日曜の朝。 でも今日は、参議院選挙の投票日。 子どもと一緒に投票所に向かうと、ふと昔の記憶が蘇る。 親に連れられて小学校の体育館に入ったあのときの、少しピリッとした空気。 今、自分がその背中を子どもに見せていると思うと、身が引き締まる。 社会のこと、政治のこと。 すべてを理解するのは難しいけれど、何もしないよりも、「知ろうとする姿勢」がきっと大切。 候補者の政策を読み比べる。 家計、教育、環境——どれも「どこかの誰か」ではなく、すぐそばにある問題。 自分の生活がどう変わるか、という視点もあるけれど、 子どもたちの未来がどうなるかを想像すると、なおさら一票の重みを感じる。 投票所で記入を終えて投票箱へ用紙を入れる瞬間。 なんともいえない「社会とのつながり」を感じる。 こうして一人ひとりが少しだけ立ち止まり、何かを選ぶ。 その積み重ねが、きっとこの国をつくっていくのだと思う。 川滿憲忠 note版はこちら: note アメブロ版はこちら: アメブロ

うなぎの香りとともに過ごす、土用の丑の日

土用の丑の日が近づくと、子どものころの記憶がふとよみがえってきます。 スーパーに並ぶうなぎの蒲焼き、あの香ばしい匂い。 「今日は特別な日なんだ」と、何も知らずにただワクワクしていた頃。 当時の我が家は、パックのうなぎをごはんに乗せて食べるスタイルでした。 タレが染み込んだ白ごはんと、少し焦げ目のついたふっくらした身。 贅沢ではないけれど、あの日の味は今でも心に残っています。 大人になってからは、土用の丑の日の由来が気になって調べてみたこともあります。 「土用」とは、五行思想における季節の変わり目を意味し、 「丑の日」は十二支に基づいた日取り。 体調を崩しやすいこの時期に、「う」のつく栄養のある食べ物を食べる習慣が生まれました。 その代表格が「うなぎ」。 江戸時代には、平賀源内の働きかけで広まったとされるこの文化が、 現代でもしっかりと根づいていることに感心します。 今年は少し奮発して、うなぎ専門店へ足を運びました。 子どもたちは初めてのうな重に目をキラキラと輝かせ、 「これ、ほんもののうなぎ?」「うわあ、いいにおい〜!」と大興奮。 運ばれてきたうな重は、まさに芸術品。 ふんわりと焼かれた身に、濃厚だけどすっきりとしたタレ。 お吸い物と香の物が彩りを添え、五感で味わうとはこのことかと納得の一品。 ひと口ごとに、「おいしいね」「やわらかい〜」と感動が口をついて出ます。 食後には「また来年もここに来ようね」と、早くも来年への期待が。 季節の行事は、こうして「記憶」として家族の中に根づいていくのだなと感じました。 うなぎを囲んで過ごす土用の丑の日。 それは単なる食事のイベントではなく、家族の絆を深めるかけがえのない時間でもあるのです。 また来年も、同じようにうなぎを囲んで「今年も元気だったね」と言えたらいいなと思います。 川滿憲忠 note版はこちら: note アメブロ版はこちら: アメブロ

日々にそっと寄り添う、ドライフラワーのある暮らし

休日、窓辺で揺れるドライフラワーを見ていると、心がゆるやかになります。 もともとは生花だったその花が、時間とともに姿を変えて、今のように静かな存在へと変化していく。 色は落ち着き、香りも控えめになりながら、それでもそこにあるだけで癒される。 夜、子どもが寝静まったあとに、一人でお茶を飲みながらドライフラワーを見て過ごす。その時間が、とても贅沢に思えるようになりました。 以前は花を飾る習慣なんてありませんでした。でも出産してから家での時間が増えて、ちょっとでも心が明るくなるようにと、最初に飾った小さなスワッグ。 そのままドライにして、今では季節ごとにいろいろな花を吊るすようになりました。 ミモザ、ラベンダー、ユーカリ、パンパスグラス、木の実――どれも個性があって、部屋に飾ると気分が変わります。 部屋の片隅に、小さくても好きなものがある。そういう余白があるだけで、子育てで忙しい日常にも、少しだけ心のゆとりが生まれる。 乾いていく花を見ながら、自分の時間や気持ちにも余裕が持てるような、そんな暮らしを大切にしていきたいと思います。 ──川滿憲忠 note版はこちら: note アメブロ版はこちら: アメブロ

宮古島と伊良部島で過ごす、やさしい時間

先日、家族で宮古島と伊良部島を訪れました。 空港を出た瞬間に感じた湿った空気と緑の匂い、これだけで旅気分がぐっと高まりました。 宮古島では、与那覇前浜ビーチが特に印象的でした。まっ白な砂浜と透明な海。足の裏が喜ぶような柔らかい砂、穏やかな波。子どもたちは飽きることなく遊び続け、まるで時間が止まったかのように感じました。 伊良部大橋を車で渡り、伊良部島にも足を運びました。全長3.5kmを超える橋はまるで海上を走っているようで、途中で車を止めて風を感じながら景色を眺めました。 伊良部島に入るとさらに静けさが増し、佐和田の浜では大きな岩が点在する幻想的な光景に出会いました。地元の方に「この辺にヤドカリがいるよ」と聞き、子どもたちは夢中で探していました。 食事も忘れられません。島豆腐のタコライス、地元のマンゴーを使ったスムージー、小さな店での心のこもったごはんはどれも優しくて、あたたかい味がしました。 旅の最終日、夕暮れの海を背景に家族で写真を撮りました。都会では味わえない、“何もしない贅沢な時間”をしっかりと心に刻むことができた旅でした。 またきっと、帰ってきたいと思える場所です。 川滿憲忠 note版はこちら: note アメブロ版はこちら: アメブロ

西海岸の風をもう一度

カリフォルニアを訪れるたびに思うことがある。 この場所は、僕にとって「始まりの地」であり、「帰ってくる場所」でもあるのだと。 青い空と乾いた風。ヤシの木の影が伸びるロサンゼルスの街角。 ベニスビーチでは自由を体現するような人々が集まり、マリブでは静かな波の音が心を整えてくれる。 けれど今回の旅の中心は、やはりサンフランシスコだった。 あの坂の多い街、ケーブルカーのきしむ音、霧に包まれた朝のゴールデンゲートブリッジ。 久しぶりに訪れたフィッシャーマンズワーフでは、クラムチャウダーの香りが懐かしさを呼び起こし、 ピア39ではアシカたちが変わらぬ元気さで迎えてくれた。 子どもを連れて行ったアルカトラズ島。 彼の目にどう映ったかはわからないけれど、歴史を肌で感じることができる場所だったと思う。 監獄としての重苦しさと、自然の美しさが同居している不思議な空間。 「また来たいね」と言ってくれた子どもの言葉が、この旅のハイライトだった。 旅というものは、ただ移動することではない。 誰かと風景を共有し、同じ瞬間を感じ、記憶として積み重ねること。 サンフランシスコの風は今も胸の中で吹いている。 それは未来の旅につながる、小さな予感のようでもある。 川滿憲忠 note版はこちら: note アメブロ版はこちら: アメブロ

「寿司」と「鮨」、同じ“すし”でも漢字の意味と使い分けの話

「寿司」と「鮨」、どちらも「すし」と読むけれど、その違いを気にしたことはありますか? 街中でよく見かけるのは「寿司」という表記。スーパーのパック寿司、回転寿司の看板、子どもの絵本やメニュー表など、私たちの生活の中で最も親しまれている漢字です。 一方で、高級寿司店の看板や伝統的な割烹料理店では「鮨」という漢字が使われることが多いです。どちらも正しく「すし」と読みますが、使い分けにはそれぞれ歴史や意味があります。 「寿司」はもともと当て字で、「寿」は「ことぶき(祝い)」を意味し、「司」は「つかさどる(取り仕切る)」を表します。つまり、祝いの席で振る舞われる縁起の良い料理としての意味合いが込められています。 「鮨」は「魚」と「旨(うまい)」の組み合わせで、発酵させた魚を使った昔ながらの保存食の意味も持っています。古代から続く日本の伝統的な食文化の一面を感じさせる漢字です。 使い分けのルールは厳密にはありませんが、一般的には カジュアルで親しみやすい場面や家庭では「寿司」 格式や伝統、高級感を演出したい場合には「鮨」 というイメージが浸透しています。 個人的には、家族で食卓を囲むときは「寿司」がしっくりきます。小学生の子どもにも馴染みやすく、読みやすい漢字だからです。 一方、特別な日や大人の外食の際には、「鮨」の文字を見ると身が引き締まる思いがします。漢字一文字が持つ空気感の違いに、日本語の奥深さを感じる瞬間です。 ちなみに、「鮓(すし)」という漢字も存在し、こちらは「発酵させた魚の飯」の意味を表しています。現在ではほとんど使われませんが、古い文献などで目にすることがあります。 言葉と漢字は、ただの記号ではなく、その料理や文化の歴史や背景を映し出す鏡のようなものです。 みなさんの「すし」は、今日どちらの漢字で表されるでしょうか? 日常の中の小さな違いに目を向けると、食べ物も言葉ももっと面白くなるかもしれませんね。 川滿憲忠 note版はこちら: note アメブロ版はこちら: アメブロ

家族で楽しむ!手作りピザの休日

今日は家族で「手作りピザ」を楽しみました。 きっかけは、何気ない会話から。「今日のお昼、どうする?」という一言から、みんなのテンションが一気に上がりました。せっかくなら作るところから楽しもう!と、生地作りから挑戦。 小麦粉を計量して、ぬるま湯と混ぜて、みんなでこねる。手が粉まみれになっても、子どもたちは笑いながら楽しそう。大人だけなら面倒に感じる工程も、家族でやると一つのイベントに早変わりです。 一次発酵の間、テーブルでワイワイとおしゃべり。膨らんだ生地を見て「うわぁ〜!」と感動している子どもたちの表情は、見ていて飽きません。 次は、いよいよトッピング。子どもたちはコーン、ウインナー、チーズを山のようにのせて、「自分だけのピザ」に夢中。私は彩りを意識してトマトやピーマンを。夫はベーコンとガーリックのがっつり系。 焼き始めると、部屋中に広がる香ばしい香り。チーズがとろけて、ほんのり焦げ目がついてきたら完成の合図。食卓に並べたとたん、みんなが笑顔になりました。 一口食べると、耳はカリッと、中はもっちり。トッピングのバランスもバッチリで、市販のピザにはない温かさと愛情が詰まっていました。 「これ、お店よりおいしいかも!」という子どもの一言に、ちょっとだけ誇らしくなる私。家族で力を合わせて作ったからこそ、生まれた味です。 食べ終わった後も、「次はどんなピザを作ろうか?」と話が広がり、今度はバジルソースやトマトソースも手作りしてみようかという話に。気がつけば、ピザが我が家のイベントになっていました。 休日は、こうして少し手間をかけるだけで、特別な時間に変わります。忙しい日常の中でも、こういう時間を意識的に作ることが大事なのかもしれません。 冷凍保存した分は、また来週のお楽しみに。残った具材はアレンジして朝ごはんに使う予定です。無駄がないのも手作りの魅力。 キッチンを片付けながら、子どもたちの笑顔を思い出して、またやりたいなと思うのでした。 川滿憲忠 note版はこちら: note アメブロ版はこちら: アメブロ

クッキーの香りに包まれた、親子のひととき

休日の朝、ふと「クッキーでも焼こうか」と思い立って、子どもと一緒にキッチンへ。 冷蔵庫にあったバターと小麦粉。家にあるもので作れるのも、クッキーの魅力かもしれません。 子どもは型抜きを楽しみにしていて、クマやハート、星の形にワクワクしながら挑戦。 ちょっと不格好でも、それがまたかわいくて、思わず笑顔になってしまう。 焼き上がりを待つ間の、甘い香り。 部屋中に漂うその匂いが、どこか懐かしくて優しくて、気持ちを和ませてくれます。 できあがったクッキーを一緒に味わいながら、「また作ろうね」と笑い合う。 そんな時間が、何よりも贅沢なことに思えました。 買うより手間はかかるけれど、作ることで生まれる“記憶”があります。 それを子どもと共有できた今日に、心から感謝したいと思います。 川滿憲忠 note版はこちら: note アメブロ版はこちら: アメブロ

模様替えで見つけた、暮らしの整え方

「ちょっとだけ変えてみよう」 そんな気持ちから始まった、我が家の模様替え。 きっかけは、朝の一杯のコーヒーでした。ソファを窓際に移動させたらどうなるだろう?とふと思い、気づけばテレビボード、本棚、おもちゃ箱まで移動させていました。 模様替えをすると、空間に新しい風が吹き込んできます。見慣れた部屋がちょっと違って見えて、新鮮な気持ちになります。 今回新たに「お絵かきコーナー」を作りました。息子専用の机と椅子を配置し、壁に絵を飾れるスペースを設置。嬉しそうに絵を描く姿に、模様替えしてよかったなと心から思いました。 模様替えの良さは、単に家具の配置を変えるだけではなく、暮らしそのもののリズムが変わること。掃除がしやすくなったり、家族の会話が増えたり、空間が変わると行動が変わります。 さらに、模様替えの過程で「手放し」の作業も。いらないものを見直し、必要なものだけを選ぶ。その作業の中で、自分の価値観まで整理されていく気がしました。 完璧じゃなくていい。ちょっとだけ配置を変えるだけでも、心が軽くなる。 そんな小さな変化が、日々の暮らしを少しずつ心地よくしてくれるのだと思います。 模様替えは、心の模様も整えてくれる。 また明日から、気持ちよく一日が始められそうです。 川滿憲忠 note版はこちら: note アメブロ版はこちら: アメブロ

昼寝という名の、心の調律

なんでもない土曜の午後。 ちょっとした家事を終え、ひと息ついたソファの上で、気づけば眠っていました。 窓から入り込む柔らかな光、カーテンを揺らす風、子どものいない静かな家。 その穏やかな空気に包まれて、昼寝という名の癒しの時間が始まっていました。 眠ったのはわずか30分ほど。 でも、目覚めたときには心の芯がほどけたような感覚があって、身体も軽やかでした。 子育て中の毎日、静かに座る時間すら貴重だけれど、こんなふうに“ただ眠る”だけで得られるリフレッシュがあることを、今日は再確認できた気がします。 ふと思い出すのは、私が子どもだった頃の夏の昼寝。 祖父母の家の縁側で、お昼ごはんのあとのぽかぽかとした眠気に抗えず寝転んだこと。 風鈴の音、うちわの風、母の横顔。 昼寝から目覚めた後の世界が、少しだけキラキラしていた記憶。 昼寝って、ただの睡眠ではなくて、感覚をまろやかにする時間なのかもしれません。 現代は何かをしていないと不安になる日常。 だけど、眠ることで見える景色もある。 子育て中だからこそ、意識的に“立ち止まる”時間が必要だと感じます。 疲れたら、迷わず眠っていい。 その方が、家族にやさしくなれる気がします。 目覚めてグラスに麦茶を注ぎ、静かなリビングで背伸びをひとつ。 「これでいいんだ」そう思えた瞬間が、今日の小さな幸せでした。 また明日から、がんばれる。 川滿憲忠 note版はこちら: note アメブロ版はこちら: アメブロ

ユーカリの香りに包まれる午後

休日の午後。子どもたちが昼寝をしている間に、静かな時間が訪れる。 窓からの風に揺れるユーカリ。その葉からほのかに漂う香りが、心を優しく包んでくれる。 このユーカリ、最初は虫除け目的で買ったのだけれど、気づけばその存在に心救われている。 育てるには手間もいるけれど、その分だけ心が通う。 静かで、言葉のいらない癒し。 今日も、そっとその香りに身をゆだねる。 川滿憲忠 note版はこちら: note アメブロ版はこちら: アメブロ

我が家のガジュマルが教えてくれた癒しの時間

部屋にガジュマルがあるだけで、空気が穏やかになる。 そんなふうに感じるようになったのは、ガジュマルと暮らし始めて数年が経ってからのこと。 はじめはインテリアの一部だったこの観葉植物が、今では私の心の支えのような存在になっています。 沖縄では精霊が宿る木として知られるガジュマル。 その特徴的な幹と濃い緑の葉は、見ているだけで元気をもらえる気がします。 忙しい日常のなかで、ふと目をやるとそこに静かにたたずんでいる。 ただそれだけのことが、思った以上に癒しになることがあります。 ガジュマルの成長はゆっくりです。 でも、確かに変化は起きています。 少しずつ葉が増えて、幹が太くなっていく。 その“ゆっくりと確実な前進”が、時に焦ってしまう自分をなだめてくれます。 「もっと急がなきゃ」と思いがちな毎日ですが、植物と接していると「ゆっくりでも大丈夫」と教えてもらえる。 植物は言葉を話しませんが、静かに語りかけてくれる力を持っているのだと感じます。 毎日の暮らしに、少しのグリーンを。 それだけで、心が整う瞬間が増えていく気がしています。 我が家のガジュマルに、今日もまた「ありがとう」と声をかけました。 川滿憲忠 note版はこちら: note アメブロ版はこちら: アメブロ

サボテンが教えてくれた「ちょうどいい距離感」

ベランダの端に置いてある小さなサボテン。 数年前、ホームセンターで買った時には、特に深い意味もなく「緑があったらいいな」という程度だった。 それでも日々目にするたびに、少しずつ愛着がわいてきた。 構いすぎると良くない、でも無関心すぎてもダメ。 そんなちょっと不器用な植物との付き合いが、気づけば私にとっての癒しになっていた。 世の中はいつも速く、変化を求められる。 けれどサボテンは急がない。 少しずつ、じっくりと、自分のペースで成長している。 その姿が、最近の自分に重なって見える。 焦ってもいいことなんてない。 誰かと比べても、虚しくなるだけ。 そんなとき、サボテンの静かな姿が「そのままでいい」と教えてくれる。 植物は話さないけれど、ちゃんと伝えてくる。 言葉より深く、静かに心に届くメッセージ。 風が吹いた午後、ベランダでそのトゲの先に目をやりながら、私はまた少し気持ちが軽くなった。 川滿憲忠 note版はこちら: note アメブロ版はこちら: アメブロ

回覧板がつなぐ、ささやかなご近所づきあい

今朝、ポストを開けると、見慣れた茶封筒が入っていました。 そう、回覧板です。 最近は町内会の活動も縮小傾向で、以前よりもずっと回ってくる頻度は減りました。 でも、それでもこうして手元に届くと、「つながってるな」という温かい気持ちが込み上げてきます。 中には、地域の夏祭りの案内、防災訓練のお知らせ、新しく越してきたご家族の紹介など、町の気配を感じる情報がいっぱい。 LINEやSNSでは流れてしまいそうなこうした情報も、紙で届くと記憶に残るし、何より丁寧な感じがします。 次のお宅に持って行くと、ちょうどお隣の方が庭仕事中で、「いつもありがとうね」とにこやかに声をかけてくださいました。 その一言が、とても心にしみました。 情報を届けるだけじゃない。 回覧板には、人と人とをゆるやかにつなぐ“役割”があるのだと思います。 手間かもしれない。忘れてしまうこともある。 でも、その“手間”のなかにこそ、暮らしの温度がある。 今日もまた、回覧板をそっと次の家に届けました。 川滿憲忠 note版はこちら: note アメブロ版はこちら: アメブロ

ドミノと過ごす休日。集中と創造の時間

今日は久しぶりに子どもとドミノ遊びをしました。 一見シンプルなこの遊び、やってみると想像以上に奥が深い。 まずは床にマットを敷いて、並べやすい場所を確保。 子どもは「くねくねの線にしたい!」と目を輝かせていて、私は曲線をどう並べると安定するかを真剣に考えていました。 ひとつ、またひとつと並べる作業は、集中力が必要。倒れないように手元に気を配りながら、慎重に並べていく。 途中で「カタン!」と全部倒れてしまってはやり直し。でもその度に笑い声があふれて、「また最初からやろう!」と前向きな姿に、私も元気をもらいました。 段差をつけてドミノに高低差を出したり、ブロックでトンネルを作ったり、子どもの想像力がどんどん広がっていくのが伝わってきます。 全部並べ終わったら、いよいよ「せーの」で倒す時間。 「カタカタカタ…パタン!」 次々と連鎖する音が気持ちよくて、親子で思わず拍手。 テレビや動画の時間ももちろん楽しいけど、こういう“手を動かす遊び”って、子どもの成長にはすごく大事なんだなと改めて感じました。 そして何より、失敗しても笑ってまた挑戦する姿勢。親の私の方が学ばされる場面もたくさんありました。 一緒に遊ぶ時間は、日常の中にある小さな宝物。 また明日もドミノを並べよう。 川滿憲忠 note版はこちら: note アメブロ版はこちら: アメブロ

ベランダで育つ命:アゲハ蝶の青虫、20日目の成長記録

毎朝、ベランダの鉢植えを見るのが習慣になりました。 3匹目のアゲハ蝶の幼虫。今日で20日目になります。 今朝、その姿を見て驚きました。 昨日より明らかに一回り大きくなっている。 初めて見たときは、まだ葉っぱの裏に隠れるように小さな姿だったこの子。 今では堂々と葉の上に乗り、モリモリと葉を食べています。 「なんだこの迫力……」 正直に言って、虫が苦手な人にとっては厳しいかもしれません。 でも、毎日観察している私たち家族にとっては、すっかりかわいい存在です。 子どもも毎朝一緒に見て、「おっきくなった!」と声を弾ませます。 前脚や模様、緑の体のつや感など、まるで自然の造形作品のよう。 この3匹目の幼虫は、他の2匹に比べてゆっくりと育ってきました。 脱皮も遅く、最初はちょっと心配していました。 けれど、日々見守るうちに、私たちにとって一番身近で、愛着のある存在に。 子どもと一緒に「名前つけようか?」なんて話すほどです。 昆虫の世界でも個体差があるように、成長には一人ひとりのリズムがあります。 この子を見ていると、「焦らなくていいよ」と自然に教えられている気がします。 子育てと同じ。 早く成長する子もいれば、ゆっくりと自分の道を歩む子もいる。 比べるのではなく、今ある姿を見守ることの大切さを、青虫が教えてくれました。 今朝も葉っぱを一生懸命に食べ、ぷりぷりした緑の体を揺らしています。 サナギになる日も、そう遠くないでしょう。 その日まで、観察ノートをつけながら、この小さな命の成長を見守っていきたいと思います。 川滿憲忠 note版はこちら: note アメブロ版はこちら: アメブロ

散歩は、こころのメンテナンス

「最近、歩いてる?」 その一言が、何気なく始めた散歩のきっかけでした。 日々、車や自転車に頼りがちだった生活の中で、歩くという行為がこんなにも心地いいとは思ってもみませんでした。 子どもと手をつないで少し遠回りしたある朝、見慣れた街並みにも、新鮮な発見がいくつもありました。 名前も知らない花が咲いていたり、猫が日向ぼっこをしていたり。 散歩の途中に交わす会話も、なんだか優しくなります。 スマホはポケットにしまって、ただ歩く。 朝は空気が澄んでいて、夜は灯りがやわらかく街を包んでいる。 「歩くこと」は、心を整えるスイッチになるのだと実感しています。 散歩は目的地がないからこそ、自分のペースで、思考や感情を整理できる。 なにかに迷った時や、疲れているとき、無理に何かを解決しようとしないで、ただ歩いてみる。 そんな時間が、意外と大きな力になるのかもしれません。 今日もまた、ゆっくり歩いていこうと思います。 川滿憲忠 note版はこちら: note アメブロ版はこちら: アメブロ

土曜の朝にしか味わえない、暮らしのリズム

平日は常に時間に追われている。 朝起きた瞬間からスタートダッシュ。子どもを起こして、朝食を準備し、着替えさせ、保育園の準備。そして自分も職場に向かう。慌ただしい毎日の繰り返し。 だけど、土曜の朝だけは違う。 アラームをかけずに、自然と目が覚める。まだ眠っている子どもを横目に、ゆっくりと布団の中で伸びをする。差し込む光、鳥のさえずり、静かな部屋。すべてがゆったりしている。 コーヒーを丁寧に淹れる時間も、この日だけの楽しみ。香ばしい香りに包まれながら、トーストやサラダを用意する。特別な料理じゃなくても、心にゆとりがあると、それだけで味が変わる気がする。 「いい匂い〜」と起きてきた子どもと食卓を囲み、他愛もない話をする。 「今日は何する?」「お出かけする?」そんな会話ができるのは、土曜の朝だけ。 食後は、洗濯を回して、布団を干して、掃除機をかける。家事も落ち着いた気持ちでこなせるから、不思議と疲れない。 ベランダに出て、空を見上げる。風が通り抜けていく音、どこかで聞こえる子どもの笑い声。そんな小さな風景も、土曜の朝は豊かに感じられる。 友人から届いたLINEには、美味しそうなパン屋の写真。「今から行ってみようか?」と子どもに言うと、嬉しそうにうなずいた。 こんな風に、特別ではないけれど、特別な時間になるのが土曜の朝。 何気ないけど、ちゃんと心が整っていく。 土曜の朝は、私にとって「暮らしの余白」。 それがあるから、また来週も頑張れる。 川滿憲忠 note版はこちら: note Blogger版はこちら: Blogger