投稿

8月 6, 2025の投稿を表示しています

“表現の自由”の誤用──誰かを傷つける自由は本当に許されるのか

 「表現の自由」は、現代社会において最も重要な価値の一つとされている。思想・言論の自由、報道の自由、芸術表現の自由。これらが保証されているからこそ、私たちは自由に考え、語り、感じることができる。だが近年、「表現の自由」という言葉が、他人を傷つけたり攻撃したりするための“免罪符”として使われる場面が増えているように感じる。 SNSを中心に、「自分の意見を言っただけなのに叩かれた」「これは表現の自由だ」と主張する投稿を見かける。しかし、その“意見”が誰かを深く傷つけていたり、差別や偏見を助長していたりすることに対して、無自覚なまま権利だけを振りかざす姿勢は、はたして正当化されるべきだろうか。 表現の自由は無制限ではない。それは民主主義国家であればどこでも共通している。たとえばヘイトスピーチ。日本では法規制が進みつつあるが、欧米諸国では特定の民族や人種への差別的言動は、表現の自由の範囲外とされている。自由とは本来、他者の自由をも尊重してこそ成り立つものであり、他者を抑圧してまで主張すべきものではないはずだ。 特にネット社会においては、「自由な発信」が暴力的なツールに変化しやすい。相手の顔が見えないこと、責任が追及されにくいことから、過激で攻撃的な言葉が氾濫する。そして、そうした投稿に対して批判が集まると、「表現の自由を侵害するな」と被害者意識を募らせる。この構図は極めて歪だ。 たとえば、ある芸能人が育児について自らの経験を投稿したとしよう。それに対し「甘い」「間違ってる」「親として失格」といった批判が殺到する。こうした“意見”も、発信者側からすれば表現の自由かもしれない。しかし、単なる罵倒や人格否定が「意見」として通用する社会でいいのだろうか。 さらには、「風刺」「ジョーク」「ネタ」と称して、社会的に弱い立場の人をからかったり、マイノリティを揶揄したりする表現も後を絶たない。それを批判すると、「表現の自由を脅かすな」「ユーモアがわからないのか」と返される。だが、ユーモアとは権力や体制に向けるべきものであり、弱者を笑いものにすることではない。 このような状況は、子どもたちの教育にも影響を与えている。「言いたいことは言っていい」と教える一方で、「言葉には責任が伴う」という視点が欠けている。実際、SNSを使い始めたばかりの中高生の間で、誹謗中傷や炎上が起こるたび、「自由...

南米バックパッカー旅総括|13日間の孤独と出会いがくれた「未来の景色」

 若き日の私は、自分を知るために南米を旅した。ペルーのクスコから始まり、ウユニ塩湖、月の谷、アマゾン奥地、アタカマ砂漠、リオ・デ・ジャネイロ、最後はクスコから帰路。それぞれの場所に、出会い、静寂、孤独、感動があった。 この13日間は、私自身のアイデンティティをゆさぶる経験だった。旅先で言葉を交わした人、手を差し伸べてくれた旅仲間、自然の音を教えてくれたガイド。誰一人として観光用のキャラクターではない、本物の人たちだった。 旅を終えてから家族と暮らす中で、あの時間がくれた視点が心を支えてくれている。「限界を越えた経験」や「偶然の出会い」が、日々の子育てや生活の中で迷う自分に道しるべを与えてくれる。 そして、私の中で最も強く思っているのは、この旅を「人生の物語のおおきな章」だと捉えていること。すべての経験が今の自分を形づくっている。だからこそ、子どもたちにも「自分を広げる旅」の機会を与えたいと強く願う。 13日間をまとめている今、私はまた歩き出す。今度は子連れの旅として。あの風景に、あの静寂に、あの熱狂に、家族と共に触れる日が来ることを信じて。 この記録が誰かの心に響き、旅をしたくなると思ってくれるなら、それが旅の本質への小さな証になると思う。

南米バックパッカー旅13日目|クスコで感じた“帰る勇気”と“また歩く意志”

 旅の13日目にして、私はついに旅の終わりを迎える。クスコの小さなホステルから空港へ向かう道中、自分の中にあるいくつもの感情が波打っていた。 アンデス越え、ウユニ塩湖、アマゾンでの命の体験、アタカマ砂漠の星空。それらすべてを追いかけてきた自分が、これからまた日常に戻る。「旅を終える」とは、「日々を始める」と同義なのかもしれない。 朝、市場で見かけた織物、マンゴーの甘さ、「Buen viaje」と笑顔で見送ってくれたパン屋のおばさん。どれも、旅人を支える記憶だ。「また来てね」という言葉を束ねながら、私は帰国のフライトへと歩いた。 列車でマチュピチュ村を通過しながら、あの日見た風景が瞼の裏に浮かぶ。世界中に素敵な場所は無数にある。だけど、この旅で感じた何かは、どこにもない価値を持っていた。 夜、クスコに戻り、遠くの山々をぼんやり眺めた。街の灯りは川のように揺れ、星と混ざって見える。帰る勇気と、また歩く意志。どちらも胸の中にある。 「帰る場所」がどこかにあること。そして「歩きたい場所」がまだあること。旅人であり、父であり、何より人生の旅人である自分を少しだけ誇れた気がした。 ──川滿憲忠