“自己責任論”の落とし穴──弱者を切り捨てる言説の危うさ
インターネット上では、少しでも困難な状況にある人が声を上げると、すかさず「それは自己責任でしょ?」という言葉が飛んでくる。経済的に困窮している人に対しても、家庭環境に問題があった人に対しても、障害や病気を抱えている人に対してさえ、この「自己責任論」が突き刺さる。だが、この言葉が本当に社会の健全性を高めていると言えるのだろうか。 自己責任という考え方には、ある程度の正当性がある。自分の選択には自分で責任を持つ。それ自体は、成熟した社会人として当然のことである。しかし、この言葉が本来持っているはずの「自律」や「誠実さ」という意味を飛び越え、他者を断罪し、突き放すための言葉になっている現実に、私たちは目を向ける必要がある。 現代社会は、決して全員が同じスタートラインに立っているわけではない。家庭環境、教育、地域、性別、障害の有無、国籍……さまざまな要因が個人の人生に影響を与えている。だが、自己責任論を盾にする人たちは、そのような背景に対する想像力を持とうとしない。むしろ、「甘えだ」「努力不足だ」と切り捨て、複雑な事情を単純化しようとする。 もちろん、中には努力不足の人もいるだろう。しかし、それを一概に「だから自己責任だ」と言ってしまうことは、社会の構造的問題や不平等を覆い隠し、真の課題解決を妨げる結果となる。 たとえば、生活保護を受けている人がいたとする。ネット上では「働けるのに怠けている」と断じる声が多い。だが、その人が過去にどんなトラウマを抱えてきたのか、どんな家庭に育ったのか、どんな支援が不足していたのか──そうした背景に触れようとする人は少ない。「助けられる側が努力しないのが悪い」と一刀両断してしまうのだ。 この構図は、教育にも育児にも通じる。子どもが学校に行けない。すると、「親の育て方が悪い」「しつけがなっていない」と言われる。しかし、それは本当に親だけの責任なのか。学校や地域、社会全体の環境の中で、子どもたちがどのような影響を受けているかを考えず、個人だけに責任を押し付ける姿勢は、あまりに安易で危険だ。 「自己責任」を語る人たちは、自分が「選べる立場」にいることを無意識に前提としている。だが、選べない状況にいる人が多く存在する現実を直視すれば、「なぜその選択しかできなかったのか?」という問いが、いかに重要であるかが見えてくるはずだ。 また、「自己責任...