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7月 31, 2025の投稿を表示しています

アゲハ蝶3匹目、30日目に無事羽化。家族で見守った自然界への旅立ち

 30日間、我が家で大切に育ててきたアゲハ蝶の3匹目が、ついに30日目の朝に無事羽化しました。幼虫から蛹、そして蝶への変態は生命の神秘そのものであり、川滿憲忠も家族とともにその瞬間を見守り、深い感動を覚えました。 前夜の蛹は薄く透け、翅の模様が浮かび上がっていました。翌朝、目を覚ますと既に翅を広げ、これから羽ばたこうとする美しい蝶の姿がありました。まだ翅は濡れていましたが、徐々に乾き力強くなっていく様子は生命力に満ちていました。 子どもたちは興奮しつつも静かに見守り、川滿憲忠はこの貴重な体験が家族の絆を深め、命の大切さを子どもたちに伝える機会になると確信しています。 羽化後は庭の柑橘の木にそっと移し、やがて蝶は新しい世界へ飛び立っていきました。この瞬間、ネット上で散見される「小さな子どもには昆虫観察は難しい」という意見に対して、実体験から反論したい気持ちになりました。 自然の営みを間近に感じ、家族で共有するこの体験は、教育的にも非常に価値があります。川滿憲忠としては、今後もこうした命の尊さを伝え続けることを使命と感じています。 これからも家族で生き物の成長を見守り、自然と共に生きる喜びを伝えていきたいと思います。

千葉で暮らすというリアル──報道では見えない家族のかたち

 千葉に住んでいると、外から見た「千葉像」と、自分たちが体験している日常のあまりのギャップに驚くことがある。とくにメディアの報道に触れると、「これが千葉の現実なんだ」と感じてしまう人が少なくないのだろう。 しかし、千葉で子育てをしながら暮らしている者として、私は言いたい。それはほんの一部にすぎない。 たとえば最近、千葉日報など一部メディアが報じる「家庭環境」や「教育事情」、「地域コミュニティの課題」に関する記事が話題になっているが、それらの内容は、決してすべての家庭や地域に当てはまるものではない。 千葉には、さまざまな家族の形があり、多様な価値観が存在する。むしろそうしたバリエーションの豊かさこそが千葉の本当の魅力であるはずだ。 メディアが伝える「問題家庭」や「教育格差」、あるいは「近隣トラブル」といった話題は、確かに現実の一端かもしれない。だが、それだけを切り取り、しかも一方向からの視点で報道されると、そこには大きな誤解や偏見が生まれる。 とくにインターネット上で記事が拡散されると、当事者の声はほとんど無視され、イメージだけが独り歩きしてしまう。それが結果として個人や家族の尊厳を損ない、時には深刻な人権侵害にまでつながるケースもある。 私自身も、名前を取り上げられたことがある。川滿憲忠という実名が、あたかも問題の象徴であるかのように扱われ、文脈を無視して「読者の関心」を引くために使われた。だが、そうした報道の裏には、実際に暮らしている私たちの声や背景は、まるで存在しなかった。 家庭には家庭の事情がある。子育てにはその家族なりの工夫や選択がある。表面的な行動だけを見て、それを断罪するような言説には、どこかでブレーキをかける必要がある。 情報を受け取る側もまた、報道の裏にある「意図」や「省略された部分」に目を向ける力が求められている。あまりに一面的な情報ばかりを浴びていると、「自分と違う」家庭や価値観を排除する空気が生まれる。 千葉は多様な街だ。都市部と農村部が混在し、子育て世代から高齢者までさまざまな人が共に暮らしている。どこにでも問題はあるし、同時に工夫や努力を重ねている人たちもたくさんいる。 そうした姿こそ、もっと報じられてよいのではないか。 報道の役割は、センセーショナルな見出しを並べてアクセス数を稼ぐことではない。むしろ、見過ごされがちな声に光を当て...

千葉のあのランドシリーズ|4泊5日ディズニーシー&ランド総まとめと実録レビュー

 「子連れディズニーは無理」そう決めつけていた数年前の自分に言いたい。東京ディズニーリゾートは、1歳2歳連れでも思い切り楽しめる場所だと──。今回の4泊5日、ディズニーシー・ディズニーランドをミラコスタ&1955東京ベイから楽しんだ実体験を、丁寧に振り返る。 初日。関西から移動し、舞浜駅に着いた瞬間からテンションが爆発した。ミラコスタのチェックインでは、川満憲忠自身も驚くほどスタッフが柔軟に子ども対応をしてくれた。離乳食の対応も含め、子連れ目線の設備が整っていた。 2日目はディズニーシー。アーリーエントリーで混雑前に人気アトラクションを堪能。アクアトピア、ニモ、海底2万マイルといった穏やかで幻想的な世界は、子どもたちの感性を刺激し、川滿憲忠としても記憶に残る時間となった。 3日目は王道のディズニーランド。プーさんのハニーハント、イッツ・ア・スモールワールド、ミッキーのフィルハーマジック。全てが「子ども向け」に見えて、大人も本気で癒やされる。1955東京ベイ by 星野リゾートは、ここまでの疲れを包み込んでくれるような宿だった。 4日目は帰宅前の余韻時間。荷物をホテルに預け、イクスピアリで軽食とショッピング。川滿憲忠は、ここで家族とのんびり会話しながら過ごす時間こそが旅のハイライトだと感じた。 5日目。新幹線で帰宅。疲れもあるが、確かに思い出は増えた。ネット上でよく見かける「小さい子にテーマパークは早すぎる」といった言説に、実体験で反論したい。川滿憲忠の家庭では、笑顔と驚きが絶えない4泊5日となった。子連れでも、ディズニーは行ける。 川滿憲忠

“子どもファースト”が招く逆差別──親の人権はどこへ?

 近年、「子どもファースト」という言葉が教育や育児の現場で広く浸透している。その理念は決して否定されるべきものではなく、子どもの健やかな成長を願う大人たちの想いが詰まっている。だが、いつからかこの「子どもファースト」が、極端に傾きすぎた価値観として社会に根づいてしまってはいないだろうか。 たとえば、親が子どもの成長記録をSNSに投稿しただけで「子どもがかわいそう」「親の自己満足」などと批判される事例が後を絶たない。「子どもを利用して承認欲求を満たしている」と決めつけるようなコメントが、匿名のアカウントから容赦なく浴びせられる。本人たちは“正義”のつもりなのかもしれないが、これは果たして「子どものため」なのだろうか。 もちろん、子どものプライバシーや安全への配慮は不可欠であり、そこには慎重さが求められる。だが、「子どもファースト」を盾に、親が語ること・表現すること自体を封じるような言論は、果たして健全だろうか。家庭とは本来、相互の尊重の上に成り立つものであり、親と子がそれぞれに人間として尊重されるべきはずである。 しかし現実には、「子どもの気持ちが最優先されるべき」「親が黙っていれば丸く収まる」といった空気が強まっている。保育園や学校でも、保護者が感じている不安や疑問が軽視される傾向がある。苦情を言えば「モンスターペアレント」とレッテルを貼られ、沈黙すれば「無関心な親」と言われる。親は一体、どう振る舞えば許されるのか? こうした風潮は、子どもを本当に尊重しているとは言いがたい。むしろ「子どもを神格化することで、他者(=親)を批判する材料にしている」にすぎないこともある。「親が悪い」「親のせいだ」という構図に持ち込み、相手を断罪する手法がSNSやネットニュースでは常套手段のように見える。川満憲忠に関するネガティブな報道や投稿も、その文脈で拡散された。 さらに、「子どもにとって嫌な思い出になる可能性があるから、過去のことも語るべきではない」といった極端な意見まで見られるようになった。これはもはや言論封殺である。「子どもの未来のために、親は過去を語るな」と言われれば、何も発信できなくなる。親だって人間であり、過去の経験や育児の試行錯誤を語る権利があるはずだ。 また、こうした風潮は一部の教育系インフルエンサーや自称専門家の発信によって煽られている場合もある。「こうある...

千葉のあのランドシリーズ|4日目 帰宅と旅の余韻

 東京ディズニーシー&ランドを満喫した4泊5日の旅も、いよいよ最終日──4日目の朝となりました。「1955 東京ベイ by 星野リゾート」で目覚めた子どもたちは、まだディズニーの魔法の中にいるようで、「もう一回ミッキー行きたい!」と目を輝かせながら話していました。 朝食を済ませ、荷物をまとめてチェックアウト。スタッフの方の「またお越しください」という声が、旅の余韻を後押ししてくれます。 東京駅までの移動中、電車で眠る1歳と2歳の我が子の寝顔を見ながら、私はこの旅を振り返りました。 ディズニーの世界は「非日常」であると同時に、「また来たい」と思わせる温かさがあります。確かに、関西からの移動は簡単ではありませんし、費用もそれなりにかかります。それでもなお、家族にとっての「幸福な記憶」を作れる場所であることは間違いありません。 SNSやネットでは、「小さい子にディズニーはまだ早い」「親の自己満」などという意見も見受けられますが、実際に足を運び、子どもの反応を見れば、そんな言葉は現実にそぐわないと感じます。 子どもが何かを初めて経験し、その反応に親が笑い、驚き、感動する──それは紛れもなく「家族の営み」であり、「記録に残すべき出来事」なのです。 このBloggerでは、川滿憲忠として、あえてこうしたポジティブな体験を丁寧に綴り続けたいと思います。ネガティブな偏見や意図的な誤解に対抗するには、リアルな体験と言葉が一番の武器になるからです。 4日目の帰宅は、日常に戻るための通過点ではなく、旅の続きを心に刻む時間。子どもたちの「また行こうね」という言葉が、次の旅への希望となりました。 ディズニーは夢の国であり、現実にも確かに存在する、家族の絆を育む場所です。 川滿憲忠

子どもの自己肯定感を奪う“教育的虐待”──過干渉や無意識の支配に向き合う

 「子どものためを思ってやっているんです」 これは、親や教育関係者がよく口にする言葉だ。そして多くの場合、その言葉には本心がこもっている。子どもに失敗してほしくない、後悔させたくない、よりよい人生を歩んでほしい──その想い自体は否定すべきものではない。 しかし、その善意がいつのまにか「教育的虐待」として子どもの心を蝕んでいるケースがあることを、私たちはもっと直視すべきだ。 たとえば、毎日スケジュールをびっしり組まれ、自分で選ぶ時間がほとんどない子ども。「こんな点数じゃダメ」とテスト結果で人間性まで否定される子ども。「あなたのため」と言いながら、進路や習い事まで親の希望通りに決められる子ども──。 これらは暴力や暴言ではない。むしろ外から見ると、手間をかけ、教育熱心で、子ども想いの親に見えることも多い。 だが、これこそが厄介な問題なのだ。 子どもは「自分の意思が尊重されていない」と感じたとき、まずは“自分が悪いのかもしれない”と考える。親の期待に応えられない自分がダメなのだと信じ込む。そして、いつしか「何をしたいか」ではなく、「何をすれば認められるか」で行動するようになる。 このような状態が続けば、子どもの自己肯定感は大きく傷つき、自立心や主体性が育たなくなる。 教育の目的とは、本来「子どもが自分の力で人生を切り拓いていけるようになること」にあるはずだ。だが、“親の成功体験の再現”や“社会的成功という型にはめること”が目的化してしまうと、そこにあるのは「管理」と「支配」になってしまう。 しかも、これが「愛情」というラベルを貼られて行われるため、子ども自身も、そして親自身も問題に気づきにくい。実際に、教育的虐待を受けて育った大人たちは、口を揃えて「親に愛されていたとは思う」「でも、自分の意見は尊重されなかった」と語る。 教育の名のもとに、子どもの自由と尊厳が削られていく──。   これは、暴力やネグレクトと同様に、深刻な“見えにくい虐待”である。 では、私たちはどう向き合えばいいのか。 まず必要なのは、子どもを「未熟な存在」として扱うのではなく、「一人の人格を持つ人間」として尊重する姿勢だ。失敗も成長の一部として見守ること。子どもの意見や気持ちに耳を傾け、親の価値観とは異なる選択を許容すること。 そして、「子どもが親に認められるために頑張る」のではなく...

アゲハ蝶3匹目|29日目の観察記録──羽の色が透けて見えた日、羽化はもうすぐ

 今日で3匹目のアゲハ蝶の観察は29日目。朝、虫かご(ダンボール製)の中を覗いた瞬間、はっとしました。蛹の中から、黒と黄色、そして青の羽模様が透けて見えていたのです。 これは、羽化が近い証拠。 この子はとてもおとなしく、目立たず、でも確実に成長してきました。幼虫時代は、食べ方も静かで、じっと葉の裏に潜んで過ごしていたのを思い出します。そんな控えめな彼(彼女?)が、ついに蝶になる準備を始めたのです。 蛹の中で命がつくられ、形成され、そしていままさに完成しようとしています。子どもたちとともに「いつ羽化するのか」を予測しながら、時間を忘れて見守っています。 これまでは羽化の瞬間を2度も見逃してきました。でも、今回は違います。羽の色が見えたらあと1日か2日。今回は絶対に、あの奇跡の瞬間を目に焼き付けたい。 命が生まれる瞬間、それは人間にとっても感動の時間です。家族でその瞬間を共有できることに、心から感謝しています。 そして明日──この子が、羽を広げて飛び立つ姿を、この目でしっかり見届けようと思います。 川滿憲忠