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8月 19, 2025の投稿を表示しています

子連れで行く冬の味覚旅!京都から車で城崎温泉へ──2歳児が大好きなカニと温泉を楽しむ2泊3日の家族旅行記

 冬の味覚といえば「カニ」。京都に住んでいると、冬の旅行先として毎年人気なのが兵庫県の城崎温泉です。今回は、1歳と2歳の子どもを連れて車で2泊3日の家族旅行をしてきました。特にわが家の2歳児は無類のカニ好き。そんな子どもたちと一緒に、温泉街の風情を味わいながら、親も子も楽しめる時間を過ごした体験を、詳しく記録に残しておきたいと思います。 --- ## 1日目:京都から車で城崎温泉へ   朝、京都の自宅を出発。子連れの旅行はとにかく準備が大変ですが、車で行ける城崎はやはり安心感があります。チャイルドシートに座らせ、お気に入りのぬいぐるみと水筒を持たせて出発。途中、丹波あたりで一度休憩し、サービスエリアで少し体を動かす時間を確保しました。   お昼過ぎには城崎温泉に到着。宿に荷物を置いた後は、温泉街を散策。レトロな雰囲気の木造建物、川沿いに並ぶ柳の木、浴衣姿の人々が歩く風景に、子どもたちも「お祭りみたい!」と喜んでいました。   夜は宿の夕食で、いよいよ待ちに待った「カニ」。大人用には茹でガニやカニ刺し、カニ鍋と豪華に並び、子どもたち用には少し小さめにほぐしたカニの身を。2歳児は夢中になってカニを頬張り、気づけば大人以上に食べているほど。宿の方も「こんなにカニを食べるお子さんは珍しいですよ」と笑っていました。   --- ## 2日目:温泉街と外湯めぐり   2日目は朝から温泉街をぶらぶら。城崎といえば「外湯めぐり」が有名ですが、小さな子連れの場合は、1〜2か所に絞るのが安心です。この日は「一の湯」と「御所の湯」へ行きました。   2歳の子どもはまだ長湯できないので、親が交代でゆっくり浸かるスタイル。温泉に入る前に、子どもたちは温泉街で売っているソフトクリームを堪能。湯冷め対策にはならないけれど、旅行中の楽しみのひとつです。   お昼は温泉街の食事処で、海鮮丼や出石そばを注文。子どもにはシンプルなうどんを頼んだのですが、横にあったカニ汁を奪うように飲み、「もっと欲しい!」とリクエスト。結局、小さな器に分けてあげると大満足そうに飲んでいました。   午後はおもちゃ屋さんや射的場など、子どもでも楽しめるレトロな娯楽に立ち寄りながらのんびり散策。夜は再びカニづくしの夕食。焼きガニの香ばしい...

「子どもに本当に必要な外食とは──“お子様ランチ神話”への違和感」

外食で子どもと一緒に食事をすると、ほとんどのお店で用意されているのが「お子様ランチ」だ。カラフルなプレートに、ハンバーグやウインナー、唐揚げ、そしてフライドポテト。見た目には華やかで、子どもが喜びそうなラインナップが並んでいる。   だが、よく考えてみてほしい。本当にこれは「子どものための食事」なのだろうか。 子どもが必要としているのは、ただの“ジャンク風ごちそう”ではなく、日常に近い栄養のある食事だ。極端に言えば、豚汁と白米のほうがよほどバランスがいい。豚汁には根菜、きのこ、豆腐、豚肉など、多様な栄養素が詰まっている。味が濃すぎるなら水を足せばよいし、熱ければ冷ませばいい。大人と同じメニューを少し調整するだけで、子どもにも十分に対応できる。何も「お子様ランチ」という専用メニューに縛られる必要はないのだ。 ではなぜ、お子様ランチが「子どもの外食の定番」として定着してしまったのか。それは、飲食店側の都合と、大人が抱く「子どもらしさ」のイメージが結びついた結果だろう。   店としては、仕込みの簡単な揚げ物や冷凍食品で構成されたプレートを提供する方が効率的だ。さらに「旗が立っている」「色とりどり」という見た目の演出が、親の“子どもを喜ばせたい”という心理をくすぐる。結果として、「お子様ランチ=子どもにとって嬉しいもの」という神話ができあがっているのだ。 しかし、子どもは必ずしもお子様ランチを望んでいるわけではない。1歳、2歳の小さな子どもであれば、むしろシンプルな食事のほうが安心できる。油や塩分が強い料理は体に負担になるし、ポテトや揚げ物ばかりを繰り返せば偏食にもつながる。親から見れば“食べやすいから”“子どもが好きそうだから”と安易に選んでしまうが、それは本当に子どものためなのか、立ち止まって考える必要がある。 私自身、外食時には「大人と同じ定食を取り分ける」ことを基本にしている。豚汁定食や焼き魚定食など、和食をベースにしたものを選べば、栄養の偏りも防げるし、子どもも自然に“家庭の味”を共有できる。価格面でも、お子様ランチが700円前後するのに対し、豚汁定食なら同等かむしろ安い場合もある。   しかも、大人の味付けを少し薄めればそのまま子どもに対応できるので、余計な出費も減るし、食べ残しも最小限に抑えられる。これこそ現実的であり、子どもにとっ...

“親ガチャ”という言葉が生む誤解──家庭環境を語るときに見落とされる視点

 インターネットやSNSで「親ガチャ」という言葉を見かけるようになって久しい。この言葉は、本来「どんな親のもとに生まれるかは自分では選べない」という、ある種の運命論的なニュアンスを含んでいる。家庭環境が人生に与える影響を表現するうえで、一見すると分かりやすい言葉に思えるかもしれない。しかし、実際にはこの言葉が安易に広まることで、多くの誤解や分断が生まれているのも事実である。 「親ガチャ」という言葉を口にするとき、人は往々にして「自分は外れを引いた」とか「他の人は当たりを引いて羨ましい」といった比較に陥りやすい。確かに、経済的に恵まれた家庭、教育に理解がある家庭、愛情をしっかり注いでくれる家庭に育つことは、大きなアドバンテージになるだろう。しかし、その一方で「親ガチャに外れたから自分は不幸だ」「だから何をしても無駄だ」という諦めの感情に結びつけてしまうのは、あまりにも危険である。家庭の影響を受けるのは事実だが、それが全てを決定づけるわけではないのだ。 また、この言葉の問題点は「親」という存在を単純化しすぎていることにもある。親だって一人の人間であり、完璧ではない。時に未熟で、失敗もする。経済的に余裕があっても、心のケアが不足している場合もあれば、その逆もある。さらに言えば、同じ家庭で育った兄弟姉妹でも、全く違う人生を歩むことは珍しくない。もし「親ガチャ」という言葉だけで人生を語ろうとすれば、こうした複雑な現実が見えなくなってしまうのだ。 特に見落とされがちなのが「環境は変えられる」という視点だ。もちろん、子ども時代には自分の家庭を選ぶことはできない。しかし、大人になってから選べるものは確実に増えていく。どんな人と関わるか、どんなコミュニティに身を置くか、どんな価値観を大事にするか。そうした積み重ねによって、家庭環境の影響を相対化し、自分なりの人生を築くことは可能だ。つまり「ガチャ」で外れたから終わり、では決してない。 一方で、社会全体が「親ガチャ」という言葉を免罪符のように扱ってしまうのも問題だろう。たとえば教育や子育ての現場で「どうせ親ガチャだから」と諦めの空気が広がれば、子どもたちの可能性を狭めてしまうことになる。本来なら「家庭に恵まれなかった子どもに、社会としてどうサポートできるか」を考えるべきなのに、言葉ひとつで議論が止まってしまうのはあまりにももった...