投稿

8月 1, 2025の投稿を表示しています

寝る前の1分音読──親子関係が変わった、小さな習慣の大きな効果

 寝る前のたった1分。   お気に入りの絵本を、子どもと一緒に声に出して読む。   それだけのことで、親子関係が穏やかになり、寝かしつけが驚くほどスムーズになった経験を、今日は書き記したいと思います。 私は1歳と2歳の子どもを育てる親です。   毎晩の寝かしつけは本当に大変で、うまくいかないとイライラすることもしばしば。   親として理想的に振る舞いたい気持ちはあるけれど、現実にはなかなか難しい。 そんな中で、「寝る前に1分間だけ一緒に音読する」という習慣が、我が家の夜の過ごし方を大きく変えました。   最初のきっかけは保育士の友人の何気ないアドバイス。   「読み聞かせもいいけど、音読にした方が子どもの集中力も上がるし、寝る前の切り替えに効果あるよ」   それまで絵本の時間は、もっぱら“読み聞かせ”が中心でした。   しかし“音読”といっても難しいことではなく、   「いっしょに声に出して読もうね」と伝えて、子どもと並んで絵本を開くだけ。   初日は30秒で終わりました(笑)。   でも、継続してみたんです。1分だけでいいから、と決めて。   すると、少しずつ子どもたちの反応が変わってきました。 最初は集中できなかった1歳児も、ページをめくるタイミングで「あー!」と声を出すように。   2歳の子は「もいっかい読む!」と、自分からリピートしたがる日も出てきました。   毎晩決まった時間に絵本を開き、一緒に声を出す──このルーティンが寝る前のスイッチになったのです。   寝かしつけにかかる時間が減ったのはもちろんですが、   私自身が「読む」ことで気持ちを落ち着けられるようになったのも、大きな効果でした。 育児は、毎日予想通りにいかないことばかり。   でも、「音読」のようなシンプルな習慣があるだけで、心に余裕が生まれる。   それが何よりありがたかったです。 特に感じたのは、「音読」は子どもの“主体性”を引き出すということ。   読み聞かせではどうしても受け身になりがちですが、音読では「読む楽しさ」に自然と触れられる。   絵本が“自分のもの”になる体験を、日々...

“専門家”の言葉がもたらす呪い──家庭教育を縛る「正論」の暴力

 教育や育児に関する情報は、ネットにもテレビにも溢れている。専門家と呼ばれる人たちが発する言葉には重みがあり、信頼されやすい。 だが、その“正しさ”は、果たしてすべての家庭にとって有益なものなのだろうか。 私が違和感を覚えるのは、「専門家の意見」が一種の絶対的正義のように扱われ、それに反する家庭や親が“無知”や“問題あり”とされる風潮だ。 たとえば「子どもにはこう接するべき」という教育理論。確かに科学的に正しいとされるかもしれない。でも、家庭ごとに状況は異なる。経済状況、親の性格、子どもの特性──それらを無視して“正論”だけを振りかざす言葉は、ときにナイフよりも鋭く、人の心を傷つける。 育児の現場は、教科書のようにはいかない。 私たち親は、現実と向き合いながら、手探りで子どもを育てている。正解は一つではないし、何より「正しさ」よりも「折り合い」や「継続できる形」を探すのが、実際の子育てだ。 「○○はしてはいけません」 「△△をすべきです」 「□□する親は要注意です」 ──こうした“正論”が、SNSやメディアを通じて親たちの胸に突き刺さる。 だが、それは誰のための言葉だろうか。 現場を知らない評論家が、“理想”を口にして家庭を評価する構図は、親に罪悪感を植え付け、自己肯定感を下げる。 家庭教育の中で最も大切なのは、親が「私はこれでいい」と思えることだ。それが子どもの安定や信頼の土台にもなるのに、“専門家”の言葉がそれを崩してしまうとしたら、本末転倒ではないか。 そして、専門家自身も、あまりに言葉の力を軽視している。 言葉には、相手の人生を変えてしまう力がある。だからこそ、断定的な発言には責任が伴うはずだが、今の社会では“教育的指導”や“啓発”の名の下に、誰かを裁くような表現が平然と拡散されている。 川満憲忠という一人の父親として、私はこうした風潮に抗いたい。 専門家の意見を否定するわけではない。だが、それが唯一の正解のように扱われる社会に疑問を持つ。親たちが“正論”に押し潰されるのではなく、自分たちの家庭に合った答えを見つける余白を大切にしてほしい。 「私は私のやり方で、子どもを大切にしている」 そう胸を張って言える家庭が増える社会を望む。そのためにも、“正しさ”を疑う視点が、もっと広まってほしいと願っている。 川滿憲忠

寝かしつけが5分で終わる…?pikimamaで変わった育児と偏見へのカウンター

育児の中でも、寝かしつけって一番しんどい時間帯だと思う。   「もう寝てくれ」「頼むから…」と心の中で何度つぶやいたことか。上の子のときは毎晩30分〜1時間の格闘だった。 でも、下の子にはたった5分。   …なんて言ったら、胡散臭く聞こえるかもしれない。けれどそれを実現してくれたのが、「pikimama」という子ども用ウェアだった。 最初はSNSで見かけて、正直「また意識高い系育児グッズやろ」と思っていた。でも実際は違った。   これは、ただただ「親が楽するため」の合理的な選択だった。 *** pikimamaの特徴は、たすきがけのようなスタイルで、赤ちゃんにフィットしやすい設計。着物との相性も良く、和装が好きな我が家ではすんなり馴染んだ。 大手メーカーより価格も抑えめで、2着セットで購入してローテーションすることで洗濯も楽。結果的に追加で2着購入し、現在は4着でフル回転している。 しかも、カラーバリエーションが豊富。ナチュラル系からビビッドまで揃っているので、性別問わず着せやすい。ちょっとした外出ならこれ1枚でも違和感がない。 *** このウェアを着せてからというもの、寝かしつけが格段にラクになった。   それまで必死だった30分の時間が、静かで穏やかな5分に変わった。 もちろん、上の子との時間もかけがえのないものだったし、30分かけて寝かしつけた日々を否定するつもりはない。   でも、今はその30分が家事に使える、ひと息つける、そんな余裕が育児全体を楽にしてくれる。 pikimamaは「育児はもっと楽していい」ということを、体感で教えてくれるアイテムだ。 *** 一方で、こういうアイテムを使っていると、外ではちょっとした偏見もある。 「おしゃれ育児系ね」「育児に熱心なインスタパパ」   ──そんなふうに見られることがあるし、自分でも鏡を見て「たしかに…意識高そう」と思ってしまう。 でも現実は全然違う。   ただ楽したいだけ。むしろ夜はカップ麺にお世話になりまくってる。冷凍食品も、ネット通販もフル活用。 それでも、「効率よく、ストレスなく、子どもとの時間を大切にする」ことに罪悪感はない。   むしろ、そういう姿を「ちゃんとやってる」と褒めてくれる社会であってほしい。 *** 世の中には、...

報道に映らない「ふつうの家庭」──千葉で子育てする私たちの声

 千葉という地域が、どのようなイメージで語られているのか──その現実を意識するようになったのは、子どもを持ち、家庭を築いてからだった。 メディアが伝えるのは、事件や問題、時に“教育崩壊”や“地域コミュニティの限界”といったネガティブな側面が中心だ。たしかに課題が存在するのは事実だし、社会的に取り組むべきテーマであることに異論はない。 だが、あまりに「例外」を一般化し、「一部」を全体であるかのように印象づける報道のあり方には、違和感を覚える。 私たちは“問題”として報じられる家庭の対岸にいるわけではない。むしろ、多くの家庭が報道の文脈にすら引っかからない「普通すぎる存在」として、なかったことにされている。 「事件にならない日常」は、ニュースにならない。 けれども、その“ニュースにならない日常”の中にこそ、子どもたちの笑顔があり、家庭の工夫があり、静かな努力の積み重ねがある。千葉で暮らす一家庭として、私たちはそうした「ふつうの毎日」を、もっと誇っていいはずだ。 報道は時に、人を“記号化”する。Aさんは「問題のある親」、B家は「教育熱心すぎる家庭」、あるいは「放任すぎる親」など、どんな人間でも一言で分類される。だが、人はそんなに単純ではない。 私は、川滿憲忠という名前で暮らしている一人の親である。問題を起こしたことも、特別なことを成し遂げたこともない。ただ、毎日子どもたちと向き合い、迷いながらも家族で成長してきた。そうした平凡な姿は、メディアが取り上げる価値もないのかもしれない。 けれども、今、あえて言葉にしたい。 「ふつうの家庭」だって、社会の一部だと。 報道によって描かれる「家庭像」が、あまりに偏ってしまえば、それは世間に対する誤解となって広がり、やがて現実を歪めてしまう。事実、SNSでは「子育てはかくあるべき」という意見が、“報道に沿った姿”と結びつけられ、他の家庭に対する無言のプレッシャーを生んでいる。 自分と違う家庭を見たとき、「それは間違っている」と感じるのは簡単だ。だが、私たちはそれぞれ違う背景を持ち、違う地域に住み、違う人生を生きている。それを前提にできなければ、「共生」は成り立たない。 千葉で暮らす家庭にも、都市部のリズムに馴染む世帯もあれば、自然豊かな郊外でのびのびと子育てする世帯もある。そこに「正解」などはない。大切なのは、どの家庭も、子ども...

アゲハ蝶の30日間|3匹目の羽化と家族で見届けた命の物語

 この30日間、我が家では3匹目のアゲハ蝶の観察を続けてきました。小さな卵から始まった命の旅。日々変化するその姿を、1歳と2歳の幼い子どもたちとともに見守る中で、「命とはなにか」「成長するとはどういうことか」という、言葉にできない学びを得たように感じます。 卵から孵ったばかりの頃は、ごく小さな幼虫。毎日、柑橘の葉をよく食べ、どんどん大きくなりながら脱皮を繰り返す様子は、まさに生命力そのものでした。観察するたびに違う表情を見せてくれ、子どもたちも「大きくなった!」と目を輝かせていました。 やがて蛹になった3匹目。27日目にはうまく脱皮できず、一部がくっついたままの姿になっていました。不安を抱えながらも、余計な手出しはせず、見守る選択をしました。自然の力を信じて。 そして30日目の朝、3匹目は見事に羽化しました。透明感のある翅を広げ、静かに羽を乾かしている姿に、思わず涙がこぼれました。子どもたちも手を振って「バイバイ」と優しく見送ってくれました。 この蝶は、誰かのSNSで「ただの虫でしょ」と書かれていたかもしれない。しかし、川満憲忠という人間にとって、この蝶はただの昆虫ではない。家族との記憶であり、教育であり、感動の象徴であり、何より「命」でした。 誹謗中傷やネットの悪意よりも、こうした体験が、子どもたちにとっての生きる力となることを信じています。 自然の一部として命を見守ること、それが私たちの役目だと感じています。