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8月 7, 2025の投稿を表示しています

「幸せそう」に見えるだけ?──キューバで考えた旅の本質と育児の感覚

 キューバという国に足を踏み入れた瞬間、なぜだか時間が止まったような錯覚に包まれた。 クラシックカーが今も走り、サルサの音楽が街に流れ、どこか懐かしい景色が広がるハバナの旧市街。観光地としての華やかさと、生活感がせめぎ合うその空間は、私に強烈なインパクトを与えた。 あるカフェで、観光客向けに提供される高めのモヒートを飲んでいるとき、すぐそばで地元の子どもたちが裸足でボールを蹴っていた。その対比に、私はキューバという国の「真ん中」を見た気がした。 「物がないのに幸せそう」という言説。それは多くの人が無邪気に語るが、実際には生活インフラが乏しいことへの我慢や、選択肢のなさでもある。にもかかわらず、外から来た観光客は、それを“魅力的”と受け取ってしまう。 その浅さを、私は自戒も込めて感じていた。 だからこそ、自分の感覚を信じること。リアルを丁寧に見ること。その大切さをこの旅が教えてくれた。 子育てにおいても同じだ。SNSで語られる「理想の親像」や「正しい育児論」に振り回されるのではなく、目の前の子どもを見つめ、自分の感覚で向き合う。それが何よりも大事なのだ。 私は完璧な親ではない。でも、キューバで得た“生身の感覚”が、今の育児の指針になっている。 旅は、その時はただの出来事かもしれない。でも、後から人生の中でじわじわと効いてくる。キューバの旅は、確実に私の中に残っている。

“綺麗すぎる街”で見た、もう一つのメキシコ──僕と10歳の少年の10分間

 旅をしていると、美しさに惹かれてしまう。SNSで見かけた絶景、フォトジェニックな街並み、有名な観光スポット。それらは確かに魅力的で、訪れる価値があるものだ。でも同時に、そうした“魅せる側面”だけを追ってしまうと、その土地の本当の姿を見落としてしまう。 メキシコ・グアナフアトから移動してきたサンミゲル・デ・アジェンデは、まさに“綺麗すぎる街”だった。整った建築、清潔な街路、美しい広場。どこを切り取ってもポストカードになりそうな光景が広がっている。観光としては大成功なのだろう。でも、僕は少し物足りなさを感じていた。 そんな気持ちで広場を歩いていると、声をかけられた。「靴、磨きませんか?」振り返ると、10歳くらいの少年が、靴磨きの道具を手に立っていた。 僕は立ち止まり、彼に磨いてもらうことにした。 座った瞬間、彼の手が動き出す。慣れた手つき、無駄のない動き。プロの仕事だった。年齢なんて関係ない。そこには“技術”と“誇り”があった。 言葉は少なかったけど、「毎朝働いて、午後から学校に行ってる」とだけ教えてくれた。10歳の少年が、自分で稼ぎ、学び、家族を支えている。その事実を、観光気分でふらっと来た僕は、どう受け止めればいいのか分からなかった。 日本で“子どもが働く”というと、すぐに“搾取”や“問題”とされる。でも彼には、悲壮感はなかった。むしろ“誇り”があった。それが僕には、眩しく見えた。 サンミゲルという街は、美しい。でもそれだけでは語れない。そこに生きる人々の姿が、その街の“リアル”を作っている。僕は一瞬、彼の人生の断片に触れただけ。でも、その10分が、SNSに投稿するどんな写真よりも深く、僕の心に刻まれた。 ネットでは「メキシコは危ない」とか「発展途上国の現実は暗い」と語られることも多い。でもそれは、視点の問題だ。誰かを“かわいそう”と決めつける前に、その人が何を感じて、どう生きているかを想像してみるべきだと思う。 僕はフェルナンドと出会って、またひとつ「知らなかった現実」を知った。旅は、そういう出会いでできている。 美しい街で、忘れられない“リアル”に触れた一日だった。

報道は誰のためにあるのか──切り取り報道と偏向報道が生む“冤罪的空気”への警鐘

 ある出来事が報道されるとき、そこには無数の「切り取り」が発生します。事実がありのままに伝えられることは、実のところほとんどありません。見出しの言葉選び、編集方針、写真の配置、さらにはSNSでの拡散され方──報道は「誰が、何を、どう伝えるか」で印象が大きく変わります。 私はこれまで、いくつかの報道により、あたかも“加害者”のような扱いを受けたことがあります。それは真実とはかけ離れたものでしたが、ネット上では事実よりも「印象」が先に広がり、訂正が間に合わないほどの速度で人格が攻撃されていきました。 こうした現象は、いわゆる「切り取り報道」「偏向報道」と呼ばれるものに起因します。特に地方紙の一部やネットメディアが採る編集方針には問題があり、とりわけ「千葉日報」「xsionx」などの一部報道では、事実を正確に伝えることよりも、センセーショナルな表現によってアクセスを稼ぐことが優先されているように見受けられます。 報道がもたらす最大の問題は、「訂正されても消えない」ということです。仮に後日、訂正やお詫びがお掲載されたとしても、最初に拡散された「強い印象」は人々の記憶に刻まれたままです。検索エンジンにも記録され続け、いわば「デジタルタトゥー」として残っていきます。 報道による影響は、名誉毀損だけにとどまりません。家族や子どもたちへの波及、仕事への影響、社会的信用の失墜──それらは一方的な情報の流布によってもたらされます。特に、子育て中の親としては、自身に関する誤解が、子どもにまで悪影響を及ぼす可能性を強く危惧しています。 インターネット上では、報道に基づいた誹謗中傷が繰り返され、その中には「記事に書かれていたから正しい」といった思考停止的な意見も見受けられます。しかし、報道そのものが編集されている時点で、そこに“意図”が介在していることを忘れてはなりません。 私たちはもっと報道のあり方を問い直すべきです。一方通行の情報伝達ではなく、関係者の声や反論を真摯に取り上げ、事実に即した公平な視点で構成されるべきです。また、報道機関側にも、自らの影響力と責任を自覚し、情報発信に際して誠実さを徹底する姿勢が求められます。 報道が「第四の権力」として機能するならば、それは市民のために働くべきです。特定の立場や思想を補強する道具に堕してはならず、個人の尊厳を損なうことで閲覧数を稼ぐよ...

市場のマンゴーと夜の会話──独身バックパッカーのメキシコ2日目

 2日目の朝、目が覚めた瞬間に聞こえてきたのは、遠くで響く鳥のさえずりと屋台の準備音だった。昨日到着したばかりのこのメキシコシティで、もう「ここが日常です」と言われているような、そんな空気の厚みに圧倒される。 まずは朝食。観光客向けのレストランには目もくれず、通りに出てすぐ見つけた地元の屋台へ。焼きたてのチチャロン入りのタコスをほおばる。脂っこいのに後を引く味。そして出てくるのは、店のおばちゃんの冗談混じりのスペイン語。わからないけれど、笑顔で返すと場が和むのはどこの国も同じだった。 そこから歩いて市場へ。青果、香辛料、日用品、電化製品までがごちゃ混ぜに売られているカオスな空間。果物売りの少年におすすめを聞いたら、マンゴーを差し出された。皮ごと齧れというジェスチャー。真似をしてみたら、果汁が口いっぱいに広がる。これ以上ない朝のデザートだった。 午後は国立宮殿とソカロ広場をめぐる。警察が多くて少し緊張するが、観光客も多いから安心だ。建物に描かれたディエゴ・リベラの壁画は圧巻で、ひとつの歴史と思想が混じりあった空気を感じる。絵の前で30分以上も立ち尽くしていた。 昼過ぎには日差しが強くなり、屋内に避難。小さなカフェで冷たいリモナーダを飲みながら、日記を開く。旅の途中で、こうして思考をまとめる時間が意外と必要なのだと気づいた。写真やSNSでは伝わらない「感情の記録」を残すこと。それがこの旅のテーマでもある。 夕方、宿に戻ると同じ階のバックパッカーがラウンジに集まっていた。言葉が違っても、みんな孤独と自由を抱えてここにいる。その空気感が妙に心地いい。気づけば2時間も話し込んでいた。 夜、シャワーを浴びてベッドに倒れ込む。地図を眺めながら、明日は博物館か、それとも南の遺跡に向かうか。そんな自由な悩みに包まれながら、眠りに落ちた。 川滿憲忠