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9月 6, 2025の投稿を表示しています

独身時代バックパッカー東南アジア編:1日目 カオサンロードに降り立つ

 # 本文 独身時代に30日間のバックパッカー旅を決意したとき、最初に目指したのがタイ・バンコクのカオサンロードでした。世界中のバックパッカーが集まり、安宿や屋台、旅行代理店、バーが立ち並ぶその通りは、まさに「バックパッカーの聖地」と呼ばれる場所。ここから旅を始めることが、自分にとっての儀式のように思えたのです。 関西国際空港を夜に出発した飛行機は、翌朝スワンナプーム国際空港に到着しました。降り立った瞬間、湿気を含んだ空気とスパイス、排気ガスが混じり合った独特の“アジアの匂い”が身体を包み込みます。それは不思議と懐かしく、これから始まる冒険の象徴のように感じました。 空港から市内まではエアポートバスで移動。窓の外には高層ビルの合間に市場や屋台が広がり、スクーターに3人乗りした家族が笑顔で走り抜けていく。雑然とした景色に圧倒されながらも、これが憧れていた「混沌のアジア」だと実感しました。 午前10時頃、カオサンロードに到着。まだ昼前で通りは静かでしたが、両脇には古びたゲストハウスや旅行代理店、土産物屋が並び、夜になると表情を変える気配を漂わせていました。事前予約をせず、現地で宿を探すのが僕のスタイル。客引きに連れられて入った安宿は、ファン付きの部屋で1泊150バーツ(約500円)。ベッドは硬く、壁も薄い。それでも「これこそ旅だ」と心から感じる空間でした。 昼は屋台のパッタイとシンハービール。欧米からのバックパッカーが昼からビールを飲み、旅の話で盛り上がっている姿に、自分もようやくその仲間入りを果たした実感が湧きました。夕方になると、通りはネオンと音楽に彩られ、屋台でサソリやバッタの串が並び、世界中から集まった人々が夜を楽しんでいました。 その夜、半年かけて東南アジアを旅しているというドイツ人と出会い、地図を広げながら宿や移動手段の情報を教えてもらいました。旅人同士の出会いは短いけれど濃密。その一期一会が、これからの旅の醍醐味になるのだと感じました。 深夜、喧騒の中を歩きながら「この30日間、僕はどんな体験をして、どんな自分に出会うのだろう」と考えました。期待、不安、そして大きなワクワクに包まれながら迎えた1日目。独身時代だからこそできた挑戦の幕が、こうして開いたのです。

子どもとの散歩から学ぶ日常の小さな発見

 1歳と2歳の息子たちと一緒に歩く日常の散歩は、ただの移動手段ではなく、私たち大人が忘れかけている発見の宝庫です。普段の生活では、つい時間に追われ、目的地へ急ぐことに気を取られがちですが、子どもたちは歩く道すがらに無数の興味を見つけ、立ち止まり、触れ、観察します。 たとえば公園までの道すがら、地面の小さな石や落ち葉に足を止める姿を見て、私も思わず立ち止まります。「何を見つけたの?」と問いかけると、言葉にはできなくても、目の輝きや手の動きで表現してくれるその姿は、日常の些細な瞬間の価値を教えてくれます。普段なら通り過ぎてしまう水たまりや草むら、街路樹の葉の色の変化も、子どもたちにとっては大冒険の一部です。 この散歩で私が感じるのは、子どもたちは単に好奇心旺盛なだけではなく、私たち大人に「時間をかけて観察することの豊かさ」を教えてくれる存在だということです。現代社会では効率やスケジュールに追われ、立ち止まることは「無駄」とされがちですが、子どもの視点では立ち止まることこそが学びの時間。小さな発見に心を開き、目を輝かせる姿は、私たち大人が日々の忙しさに流されて見落としている価値を思い出させてくれます。 ある日、息子が道端の花をじっと見つめていました。普段なら気にも留めない小さな花。しかし、彼にとっては色や形、香りすべてが新しい世界です。「綺麗だね」と私が声をかけると、嬉しそうに頷き、さらにその花に手を伸ばして触れます。その姿を見て、私は「子どもの感性は純粋だ」と改めて感じました。そして、その感性を守るために、大人は急ぎすぎず、時には子どもと同じ目線で世界を見ることが大切だと思います。 散歩中、私たちは千葉の街並みや自然の中で、日常では気づかない季節の変化にも触れます。春の柔らかな日差し、夏の蝉の声、秋の落ち葉、冬の冷たい風。子どもたちは五感をフルに使ってこれらを感じ取り、遊びや好奇心に変えていきます。私はその横で、ただついて歩くのではなく、子どもたちの目線で景色を楽しむことを意識します。そうすることで、散歩は単なる移動ではなく、親子での学びの時間となります。 また、散歩中の子どもの行動から、親としての気づきも多く得られます。たとえば、欲しそうに見つめてくるものに対して「少しだけね」と応じることで、自己抑制や順番を待つことの感覚を自然に学んでいる様子が見て取れます。...

『いい親』という幻想──完璧を求める社会が子育てを歪める

 # 『いい親』という幻想──完璧を求める社会が子育てを歪める 子育てというものは、なぜこれほどまでに「理想像」や「正しさ」が押し付けられるのだろうか。   「いい親」とは何か。多くの人がこの言葉に縛られ、プレッシャーを感じ、他人からの評価に怯えている。だが冷静に考えてみれば、「いい親」の定義など、時代や文化によって全く異なる。にもかかわらず、日本社会では「こうあるべき」という幻想が、あたかも普遍的な正解であるかのように流布されている。私は、この「いい親幻想」が子育てを歪め、親子双方に苦しみを与えていると考えている。 ## 「いい親」であろうとする呪縛 SNSや育児本、学校や行政からの発信を見れば、「親はこうあるべきだ」という言説であふれている。   ・毎日栄養バランスの取れた食事を作ること   ・子どもの勉強を常にサポートすること   ・感情的に怒らず、いつも冷静に接すること   ・早寝早起きを徹底させること   これらは一見すると素晴らしい指針に見える。しかし現実に、日々の生活を送る親にとって、これらをすべて守ることなど不可能だ。親だって人間であり、仕事や体調、精神状態に左右される。にもかかわらず、社会は「できないこと」を責める。子どもが偏食すれば親の責任。子どもが夜更かしすれば親の怠慢。まるで親の人間性すべてが問われているかのように語られる。 だが実際には、子どもの行動や性質は多様であり、親の努力だけではどうにもならない部分が大きい。完璧を求める視線は、親を追い詰め、自己否定へと追い込む。「自分はダメな親なのではないか」という不安を持つ親ほど、世の中には多いのではないか。 ## 「正しい子育て」が生み出す矛盾 「正しい子育て」という言葉もまた危うい。   報道やネット記事で「最近の親は~」と語られるとき、そこには常に「正しい基準」がある。しかしその基準は、誰がどこで決めたのか。食育の分野では「離乳食は生後5か月から」とか「甘いものは2歳までは控えるべき」といった“推奨”が絶対的な正解のように扱われる。だが海外に目を向ければ、全く違う考え方が存在する。ヨーロッパの一部地域では2歳を過ぎても母乳を与え続けることが普通とされているし、アジアの農村では家族の食事を小さく分けて子どもに与えるこ...