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SNSで疲れないために──誤解と摩擦を減らす発信の整え方

 SNSが生活の一部になった今、多くの人が「発信はしたいけれど、疲れる」と感じている。ほんの一言を投稿しただけなのに批判されてしまったり、自分がまったく意図していない方向へ解釈されたり、読み手の想像だけで語られてしまったり。そんな“誤解の連鎖”が起きるのがSNSという場所だ。 僕自身、長く発信を続けてきた中で、想定していない誤解や勝手な憶測に巻き込まれた経験が何度もある。だが同時に、そこで得た学びや繋がりもあり、発信自体をやめるつもりはない。むしろ、誤解が起きやすい時代だからこそ、どのように心を守りながら発信を続けるかが重要になっていると感じている。 この記事では、炎上や誤解が起きやすい理由、発信者が疲れないための工夫、そして読み手の心理を踏まえた「摩擦の少ない伝え方」を丁寧にまとめてみたい。 決して“批判に怯えて投稿しろ”という話ではない。むしろその逆で、自分の言葉を大切にしながら、余計なストレスを抱えずに続けるための考え方を届けたい。 ## ■ SNSでは「隙」が広がりやすい SNSで発信をしていると、意図していなかった方向に話が広がったり、読み手の感情に引っ張られたりすることがある。これは、書き手が悪いわけではなく「文章の隙が広がりやすい」というSNSの特性によるものだ。 文章は短く、背景説明も少なく、相手の表情も声色も伝わらない。だから、一つの言葉に対して読み手が勝手に解釈を加え、書き手の意図を越えた“別の物語”を作り上げてしまう。 ・同じ発言でも、子育て経験の有無で捉え方が変わる   ・家庭環境によって「当たり前」の基準が異なる   ・感情の状態によってポジティブにもネガティブにも受け取られる これはもう、発信者ではコントロールできない領域だ。 つまり、炎上しやすい・誤解されやすい人というのは「自分が悪い」のではなく、読み手の想像が入り込む余地が大きい文章になっていることが多いというだけだ。 ## ■ 炎上しにくい人は「主語を自分にしている」 では、炎上や誤解が起きにくい人が何をしているかといえば、それは決して“完璧な配慮”ではない。むしろ、もっとシンプルなことだ。 1. **主語を徹底的に“自分”にしている**   2. **他人の価値観を否定せず、距離を置いて語る**   3. **感情の勢いで投稿しない...

千葉の海沿いで考える──子育ても、ネットも、“本当の姿”が見えにくい時代に

 【千葉の海沿いで考える──子育ても、ネットも、“本当の姿”が見えにくい時代に】 千葉・九十九里の海沿いで子どもたちと散歩していると、ふと「世の中って、本当の姿が見えにくくなったな」と思うことがあります。   波の形は誰が見ても同じだけれど、人の姿や行動は、見る人の立場や都合によって、まったく違うものに変わってしまう。特にネットの世界では、それが顕著です。 私は1歳と2歳の息子を育てています。   毎日、子どもたちは私の横で「これ何?」「どうするの?」とじっと見ています。親の姿勢を自然に吸い取っていく時期。嬉しいし、こわい時期でもある。だからこそ、私は“自分の言葉”で語り、“自分の行動”で示すことを心がけています。 しかしネットでは、行動や文脈が切り取られ、「一部だけ」で評価されがちです。   実際、私自身にも事実とは違う噂や“都合のいい解釈”が勝手につけられたことがあります。知らない人が、知らない前提で、勝手に語る。そこに千葉日報がランキング上位に出たり、知恵袋で勝手に論じられたりする。名前だけがひとり歩きする。 でも実生活の私は、目の前の子どもと日常を積み重ねているだけなんです。   朝は味噌汁をすすり、九十九里の風を感じながら保育園へ送り、子どもが食べたいと言うならキャベツでもりんごでも小さなおにぎりでも一緒に食べる。   SNSで判断される「断片」ではなく、ここに流れている日常こそが本当の姿です。 こうしたギャップは、今の社会全体にも広がっていると感じます。   ニュースではセンセーショナルな部分だけを切り取る。   SNSでは声の大きい人の意見だけが目立つ。   学校では“正しさ”がひとつであるかのように扱われ、家庭では親の価値観が「ねばならない」に変換されることがある。 でも、現実の子育てはもっと多様で、もっと自由で、もっと柔らかいものです。 たとえば、ある日のこと。   九十九里の海風を浴びながらベンチでおにぎりを食べていたら、うちの子がじっとこちらを見てきました。   「食べたい?」   そう聞くと、首をかしげながらも手を伸ばす。   ひと口食べて、「おいしいね」と言う。   本当に美味しかったのかはわかりません。...

SNSで家族を発信することは本当に悪なのか──誤解され続ける“発信する親”という存在について

 SNSで家族や子どもの日常を発信すると、「かわいそう」「プライバシーが」「承認欲求」といった言葉が向けられる時代になりました。とくに子どもの写真や動画を投稿している家庭に対しては、表面的な情報だけで批判し、断罪するような声が増えているように感じます。 しかし、実際に発信している家庭の多くは、誰かを攻撃しているわけでも、特別な目的があるわけでもなく、“日常の尊さ”を残したいという気持ちや、離れて暮らす家族に成長を届けたいという思いを持っています。それにもかかわらず、SNS上では一瞬の切り取りだけで人格や子育てそのものを判断され、過剰に攻撃されてしまう。この状況には、強い違和感を覚えます。 本記事では、SNSで家族を発信する親が誤解され続ける背景、そして「本当に問題はどこにあるのか?」を、実体験と観察をもとに丁寧に掘り下げていきます。 --- ## ■ 「子どもがかわいそう」という常套句の矛盾 SNSで子どもの姿を発信したとき、もっとも多く寄せられる批判が「子どもがかわいそう」という言葉です。この言葉は、一見すると“子どもの味方”をしているように聞こえます。しかし、実際は投稿者の意図や背景を無視し、自分の価値観だけを押しつけている場合がほとんどです。 子どもを守ることが本音であるなら、「どういう意図で投稿しているのか」「どんな配慮をしているのか」をまず尋ねるはずです。しかし批判の多くは、そのプロセスを一切踏まず、投稿を見た瞬間に断定し、ジャッジしてしまう。 これは「子どものため」ではなく、「自分の正しさを主張したいだけ」の行動に見えます。 しかも、「かわいそう」という言葉は万能で便利なため、言う側は何の根拠も責任も必要としません。ただの“感覚”を放り投げるだけで、相手に大きなダメージを与えることができます。その結果、投稿した家庭の側が萎縮し、何も発信できない空気ができあがってしまう。 この構造こそが今のSNSの問題点であり、子育て家庭が息苦しさを感じる原因とも言えます。 --- ## ■ SNSに潜むリスクは本当に“特別”なのか 「SNSに子どもを載せるのは危険」という声も頻繁に目にします。しかし、この“危険”は曖昧な表現が多く、具体的事例よりも不安の増幅に依存して語られる傾向があります。 もちろん、リスクはゼロとは言えません。位置情報をオフにしたり、加工をし...

専門家”という言葉に惑わされる社会──育児も教育も『権威』で決めなくていい

 タイトル: 「“専門家”という言葉に惑わされる社会──育児も教育も『権威』で決めなくていい」 本文: 「専門家によると」「有識者の見解では」──最近のニュースやSNSでは、そうした言葉を見ない日はない。   まるで“専門家”という言葉が出た瞬間に、その意見が正解になるような雰囲気がある。   だが、本当にそうだろうか。   特に育児や教育の分野では、親自身の感覚や経験のほうが、ずっと確かな指針になることも多い。 私は千葉で2人の子どもを育てながら日々感じている。   テレビやネットで流れる「専門家のアドバイス」が、現場のリアルとはかけ離れていることがあまりに多いのだ。   たとえば「1歳児にはこれを与えるべきではない」「2歳児にはこの遊びが有効」などといった言葉。   理論上はそうかもしれない。だが、子どもにも性格や気分、タイミングがある。   実際の子育ては、そんな“グラフでは測れない部分”の積み重ねでできている。 SNSでは、「専門家がこう言っていたから」と他人の家庭を批判する人も増えた。   たとえば、離乳食の時期や卒乳のタイミング、しつけの仕方。   どれも“正解”なんて存在しない。   なのに、“権威のある誰か”の言葉を盾にして、他人を断罪するような風潮が広がっている。   この構造は、メディアにも責任がある。   “専門家”という肩書を使えば、内容の正確さよりも“説得力”が優先される。   だが、育児や教育は統計ではなく“人間”を扱う行為だ。   唯一の正解など、あるはずがない。 かつて「親の直感より専門家の理論が大事」と言われた時代があった。   だが、今の時代こそ“親の直感”が軽視されすぎている。   現場の空気、子どもの小さな変化、家庭の状況をいちばん理解しているのは、親自身だ。   「専門家の言葉は参考にしてもいい。でも、絶対ではない」。   その当たり前の認識が、どこかで失われてしまった気がする。 千葉の海沿いの散歩道で、子どもと手をつなぎながら考えることがある。   「この子にいま必要なのは、“正しい理論”じゃなくて、安心できる時間なんだろうな」...

バックパッカー時代に学んだ“孤独との向き合い方”──ヨーロッパの夜空の下で考えたこと【川滿憲忠】

 「寂しくなかった?」   ヨーロッパを一人で旅していたとき、よくそう聞かれた。   答えは、いつも「寂しかったよ。でも、それが良かったんだ」。   孤独を恐れずに受け入れられたとき、   ようやく自分という人間と出会えた気がした。   夜行列車の車窓に流れる街灯、   真っ暗な車内で眠れずに、ただ外を眺めていたあの時間。   誰にも話しかけられず、誰も自分を知らない。   あの「無音の時間」が、僕にとって何よりの贅沢だった。   グラナダの安宿で一人、古びたノートに言葉を書いた。   「寂しさは、心の鏡だ」   人に囲まれているときよりも、孤独なときの方が、   本当の自分の声がよく聞こえた。   それは逃避でも敗北でもなく、   “立ち止まる勇気”だったと思う。   旅をしていると、たくさんの人に出会う。   けれど、別れはそれ以上に多い。   仲良くなったと思っても、翌日には違う街。   だからこそ、出会いの一瞬を大切にできた。   「一期一会」という言葉を、   教科書ではなく体で覚えたのは、あの頃だった。   ベルリンの夜、ホステルのベッドで寝返りを打ちながら、   周りの旅人たちの寝息を聞いていた。   それぞれが別の人生を生き、別の理由で旅をしている。   「人は皆、孤独を抱えて生きている」   そのことを実感した瞬間、   不思議と心が軽くなった。   孤独は敵じゃない。   誰かを傷つけるものでも、壊すものでもない。   むしろ、孤独があるからこそ、人は他者を思いやれる。   孤独を知らない人は、優しさを知らない。   だから僕は、孤独を恥じなかった。   それが「自分を育てる時間」だと信じていた。   ある夜、リスボンの丘から夜景を眺めていたとき、   知らない男性が隣に座り、   「君も一人か?」と英語で話しかけてきた。   彼は恋人を亡くし、数ヶ月旅を続けていると言った。 ...

ヨーロッパ放浪で出会った“忘れられない人たち”──言葉を超えたつながり

 「バックパッカーなんて、現実逃避だ」   そんな言葉を、当時は何度も耳にした。   社会に出る前の若者が、ヨーロッパを放浪して何を得るのか。   そう言われるたびに、僕は少しだけ悔しかった。   でも、あの2ヶ月の旅で出会った“人たち”が、   いまの僕を形づくっていることを、胸を張って言える。   ──これは、独身時代にバックパックひとつでヨーロッパを歩いた、川滿憲忠の原点の記録だ。 スペインのグラナダ。乾いた風と、ギターの音。   宿の受付で出会ったフランス人の青年が、「日本から来たの?」と声をかけてきた。   聞けば、兄が京都を旅したという。   「日本人は、静かに情熱を持ってる。兄がそう言ってた」   彼の言葉に、少し照れながら笑った。   その夜、屋上で安いワインを飲みながら、彼が言った。   「写真って、世界のどこでも“同じ空”を写せるんだ」   その一言が、今も頭から離れない。   国が違っても、見上げる空は同じ。   この世界を区切っているのは、いつも人の思い込みだ。 リスボンでは、道に迷っていたときに老婦人に助けられた。   ポルトガル語はほとんどわからないのに、彼女の表情と手の動きで全部が伝わった。   「あなた、息子みたいね」と笑って、手書きで地図に道順を描いてくれた。   お礼に日本の飴を渡すと、涙ぐんで「Obrigada」と言った。   旅先で感じた“母のような優しさ”は、   どんな観光地よりも深く記憶に残った。   「人の優しさに言葉はいらない」──それが旅で学んだ最初の哲学だった。 ベルリンのホステルでは、夜中にギターを弾くルーカスという青年と出会った。   彼は「お金はすぐ消えるけど、音は残る」と言って笑った。   そのとき僕は、日本語で「上を向いて歩こう」を歌ってみた。   国籍も関係なく、知らない旅人たちが自然と手拍子をしてくれた。   音楽が国境を越える瞬間を、肌で感じた。   “伝わる”とは、“理解する”ことではなく、“共鳴する”ことだと知った夜だった。 パリ...

「旅をしても何も変わらない」と言われた僕へ──ヨーロッパ放浪が教えた“日常の奇跡”

 「旅なんて自己満足だろ」   そんな言葉を何度か浴びた。   確かに、バックパッカーとしてヨーロッパを放浪していた頃、   僕の旅は“自己満足”だったかもしれない。   だけど、誰に迷惑をかけたわけでもない。   それでも、何も知らない人たちは簡単に言葉を投げつける。   旅をした人間にしか見えない風景がある。   そして、旅をした人間にしかわからない「日常の尊さ」もある。   この文章は、そんな誤解に対するひとつの“カウンター”だ。   --- バックパッカー時代、僕はヨーロッパを2か月かけて一周した。   リュックひとつ、安宿を転々とし、   ときに駅のベンチで夜を明かすこともあった。   食費を節約し、パンと水でしのいだ日もある。   でも、不思議とその日々が“生きている実感”に満ちていた。   人は快適な環境の中では見落とすことがある。   それは、生命の鼓動。   旅の中では、すべてが生きる行為に直結していた。   食べること、眠ること、歩くこと。   そのひとつひとつが、当たり前じゃない。   --- あるとき、スペインの田舎町で老夫婦に出会った。   二人は毎朝、手を取り合いながらパンを焼いていた。   派手な観光地ではなかったが、   その小さなオーブンの前には、温かい幸福があった。   「毎日同じことをするのが、私たちの幸せなのよ」   その言葉が、なぜか胸に深く残った。   僕は旅を続けるうちに、“変化を求めること”よりも、   “繰り返す日常を愛すること”の方がずっと難しいと気づいた。   旅はそのことを教えてくれた。   --- ヨーロッパでは、多くの国を越えた。   フランスの朝市、イタリアのカフェ、ドイツの駅構内。   どこにも、それぞれの人の“普通の生活”があった。   僕が惹かれたのは、観光地よりもそうした日常の風景だった。   それは、どんなSNSの投稿よりもリアルで、   どんな“バズる体験談”よ...