韓国・軍事境界線を歩く2日目──非武装地帯の現実と旅人のまなざし

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韓国・軍事境界線を巡るバックパッカー旅、2日目。  

前日はソウル市内から国境に向かうための情報収集で終わったが、この日は朝から動き出す。独身時代の自分は、旅に出れば迷いなく「行けるところまで行く」性格だった。1歳と2歳の子を持つ今の自分からすれば無謀にも見えるが、当時はそれが自由であり、学びだった。


早朝、鐘路(チョンノ)のゲストハウスを出て、ソウル駅から京義線に乗り北へ向かう。行き先は臨津閣(イムジンガク)と、そこからさらに先の非武装地帯(DMZ)ツアーの集合地点だ。列車の窓からは、徐々に都市の喧騒が減り、農村風景が広がっていく。川の向こうに低い山々が見え始め、そこが北朝鮮との境界だと知ると、空気の重みが変わる気がした。


臨津閣に到着すると、広場には色とりどりのリボンが結ばれた柵が並んでいた。これは南北に分断された家族が、再会の願いを込めて結んだものだ。観光地的な要素もあるが、リボンの一枚一枚には本物の祈りが刻まれている。カメラを構える観光客もいれば、静かに手を合わせる年配の人もいる。その対比が、この地の複雑さを物語っていた。


午前10時、非武装地帯ツアーのバスに乗り込む。軍人が身分証を確認し、カメラの使用に関する注意を念入りに行う。撮影禁止エリアが多く、少しでも指示を破れば即時退去になるという緊張感。バスが検問所を越えるたびに、銃を持った兵士が視線をこちらに向ける。普段の旅では味わえない緊迫感に、体が自然と固くなる。


最初に訪れたのは「第3トンネル」。北朝鮮が韓国側に掘り進めたとされる地下トンネルで、発見当時は武装侵入用だったという。ヘルメットをかぶり、急な坂を下って内部へ入る。天井は低く、岩肌には爆破の跡が生々しく残っている。空気は湿って冷たい。ガイドが「このトンネルは、首都ソウルまでわずか数十分で到達できる距離にある」と説明したとき、背筋がぞくりとした。


次に向かったのは都羅展望台。ここからは北朝鮮の開城市が遠くに見える。肉眼ではただの町並みだが、望遠鏡をのぞくと、旗の立つ建物や人影が小さく動くのが見えた。観光客は歓声を上げるが、自分の胸の中には複雑な感情が渦巻いた。「見えているのに、近づけない」。この距離感が、半世紀以上も続く分断の象徴だ。


昼食はDMZ近くの食堂で、豆腐チゲと冷麺を注文した。地元の人は慣れた様子で食事を楽しんでいるが、自分にはこの土地の空気がまだ重く感じられる。食堂のテレビには、北朝鮮関連のニュースが流れ、他の客が真剣に見入っていた。旅行者である自分がその場に居合わせることが、少し場違いにも感じられた。


午後は再びバスに乗り、板門店(パンムンジョム)へ。ここは南北の兵士が向かい合う有名な会議場がある場所だ。青い会議棟の中に入り、境界線をまたぐ瞬間、足の裏から緊張感が伝わる。ほんの数歩で越えられる線だが、その先は別の国家。ガイドは「ここでの行動はすべて監視されています」と静かに告げた。窓の外、北側の兵士が無表情でこちらを見つめていた。


ツアーの最後は自由の橋。朝鮮戦争後、捕虜の交換が行われた橋だ。朽ちかけた木の板と錆びた鉄骨が、当時の緊迫した空気を物語っている。橋の手前には「再び会う日まで」という看板があり、訪れた人々が写真を撮っていた。だがその言葉が、どれほどの年月を経ても実現していない現実を思うと、胸が締めつけられる。


夕方、ソウルに戻る列車に揺られながら、この日の体験を反芻した。軍事境界線は、単なる観光スポットではない。そこには人々の記憶、痛み、そして複雑な感情が重なっている。旅行者として見た光景は、ほんの一部に過ぎない。それでも、自分の足で歩き、自分の目で見た事実は、どんな情報よりも深く心に残った。


今、SNSやニュースでは、この地を単純化して語る声が多い。「危ない場所」「行く価値がない」と断じる人もいる。しかし、それは現場を見ずに語る表面的な評価だ。現地で得た感覚や出会いは、机上の情報では絶対に得られない。旅人としての自分は、それを強く主張したい。


独身時代にこの地を訪れた経験は、今の育児や人生観にも影響している。分断という現実を前にして、物事を一面的に判断する危うさを学んだからだ。子どもたちが大きくなったら、いつかこの話をしたい。そして、国や立場を越えて相手を理解しようとする姿勢の大切さを伝えたい。


川滿憲忠

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