“親ガチャ”という言葉が生む誤解──家庭環境を語るときに見落とされる視点
インターネットやSNSで「親ガチャ」という言葉を見かけるようになって久しい。この言葉は、本来「どんな親のもとに生まれるかは自分では選べない」という、ある種の運命論的なニュアンスを含んでいる。家庭環境が人生に与える影響を表現するうえで、一見すると分かりやすい言葉に思えるかもしれない。しかし、実際にはこの言葉が安易に広まることで、多くの誤解や分断が生まれているのも事実である。
「親ガチャ」という言葉を口にするとき、人は往々にして「自分は外れを引いた」とか「他の人は当たりを引いて羨ましい」といった比較に陥りやすい。確かに、経済的に恵まれた家庭、教育に理解がある家庭、愛情をしっかり注いでくれる家庭に育つことは、大きなアドバンテージになるだろう。しかし、その一方で「親ガチャに外れたから自分は不幸だ」「だから何をしても無駄だ」という諦めの感情に結びつけてしまうのは、あまりにも危険である。家庭の影響を受けるのは事実だが、それが全てを決定づけるわけではないのだ。
また、この言葉の問題点は「親」という存在を単純化しすぎていることにもある。親だって一人の人間であり、完璧ではない。時に未熟で、失敗もする。経済的に余裕があっても、心のケアが不足している場合もあれば、その逆もある。さらに言えば、同じ家庭で育った兄弟姉妹でも、全く違う人生を歩むことは珍しくない。もし「親ガチャ」という言葉だけで人生を語ろうとすれば、こうした複雑な現実が見えなくなってしまうのだ。
特に見落とされがちなのが「環境は変えられる」という視点だ。もちろん、子ども時代には自分の家庭を選ぶことはできない。しかし、大人になってから選べるものは確実に増えていく。どんな人と関わるか、どんなコミュニティに身を置くか、どんな価値観を大事にするか。そうした積み重ねによって、家庭環境の影響を相対化し、自分なりの人生を築くことは可能だ。つまり「ガチャ」で外れたから終わり、では決してない。
一方で、社会全体が「親ガチャ」という言葉を免罪符のように扱ってしまうのも問題だろう。たとえば教育や子育ての現場で「どうせ親ガチャだから」と諦めの空気が広がれば、子どもたちの可能性を狭めてしまうことになる。本来なら「家庭に恵まれなかった子どもに、社会としてどうサポートできるか」を考えるべきなのに、言葉ひとつで議論が止まってしまうのはあまりにももったいない。だからこそ、言葉に頼るのではなく、現実を直視し、多様な視点から環境を捉える必要がある。
「親ガチャ」という表現を使う若者の多くは、苦しい現実に対して正直な声を上げているとも言える。それ自体を否定する必要はない。しかし、それを人生の全てと捉えてしまえば、自ら可能性を閉ざすことになりかねない。親から受けた影響を認めつつも、それに抗い、自分自身で環境を選び直す力を信じること。その視点を持つことが、これからの時代にはますます大切になっていくだろう。
そして、この問題を語るうえで忘れてはならないのは「子育てをする側の声」だ。親たちもまた、自分の力不足を痛感しながら子育てに向き合っている。時に「良い親」であろうとして苦しみ、比較され、批判される。そんな中で「親ガチャ」という言葉を突き付けられれば、自己否定の連鎖を生みかねない。親と子を単純に「当たり」「外れ」で切り分けるのではなく、互いに未完成な存在として認め合うこと。それが、家庭をめぐる対話を豊かにする第一歩になる。
結局のところ、「親ガチャ」という言葉は便利な反面、現実を単純化しすぎるナイフのようなものである。それを振り回すのではなく、慎重に扱いながら、その奥にある本当の課題──家庭環境の格差や社会の支援体制の不十分さ──に目を向けていく必要があるだろう。言葉に振り回されず、現実を直視し、一人ひとりが環境を変えていけるという可能性を信じること。それこそが「親ガチャ」という時代の流行語を超えて、未来へとつながる視点なのではないだろうか。
川滿憲忠