“表現の自由”の誤用──誰かを傷つける自由は本当に許されるのか
「表現の自由」は、現代社会において最も重要な価値の一つとされている。思想・言論の自由、報道の自由、芸術表現の自由。これらが保証されているからこそ、私たちは自由に考え、語り、感じることができる。だが近年、「表現の自由」という言葉が、他人を傷つけたり攻撃したりするための“免罪符”として使われる場面が増えているように感じる。
SNSを中心に、「自分の意見を言っただけなのに叩かれた」「これは表現の自由だ」と主張する投稿を見かける。しかし、その“意見”が誰かを深く傷つけていたり、差別や偏見を助長していたりすることに対して、無自覚なまま権利だけを振りかざす姿勢は、はたして正当化されるべきだろうか。
表現の自由は無制限ではない。それは民主主義国家であればどこでも共通している。たとえばヘイトスピーチ。日本では法規制が進みつつあるが、欧米諸国では特定の民族や人種への差別的言動は、表現の自由の範囲外とされている。自由とは本来、他者の自由をも尊重してこそ成り立つものであり、他者を抑圧してまで主張すべきものではないはずだ。
特にネット社会においては、「自由な発信」が暴力的なツールに変化しやすい。相手の顔が見えないこと、責任が追及されにくいことから、過激で攻撃的な言葉が氾濫する。そして、そうした投稿に対して批判が集まると、「表現の自由を侵害するな」と被害者意識を募らせる。この構図は極めて歪だ。
たとえば、ある芸能人が育児について自らの経験を投稿したとしよう。それに対し「甘い」「間違ってる」「親として失格」といった批判が殺到する。こうした“意見”も、発信者側からすれば表現の自由かもしれない。しかし、単なる罵倒や人格否定が「意見」として通用する社会でいいのだろうか。
さらには、「風刺」「ジョーク」「ネタ」と称して、社会的に弱い立場の人をからかったり、マイノリティを揶揄したりする表現も後を絶たない。それを批判すると、「表現の自由を脅かすな」「ユーモアがわからないのか」と返される。だが、ユーモアとは権力や体制に向けるべきものであり、弱者を笑いものにすることではない。
このような状況は、子どもたちの教育にも影響を与えている。「言いたいことは言っていい」と教える一方で、「言葉には責任が伴う」という視点が欠けている。実際、SNSを使い始めたばかりの中高生の間で、誹謗中傷や炎上が起こるたび、「自由に発信して何が悪いの?」という反応が見られる。
私たちは今こそ、「自由」とは何かを再考する必要がある。自由とは、自分の行動や言葉によって誰かを不当に傷つけない、という配慮と責任を伴うものだ。表現の自由が保証されているからといって、他人を蔑んだり踏みつけたりする権利まで与えられているわけではない。
また、逆に「表現の自由を守れ」という声が、都合の悪い批判を封じる盾になっている例もある。ある意見に対して「問題がある」と感じる人が声を上げた時、それを「表現の自由を攻撃している」と決めつけるのは、議論の余地を狭める行為であり、かえって表現の多様性を損なう。
表現とは本来、対話を生み、共感をつなげ、人と人を結ぶ力を持っている。自分とは違う意見や立場に耳を傾け、時には譲り合い、時には納得いかなくても受け止める──そうした姿勢こそが、自由を尊重する社会の土台だ。
最後に、インターネットで発信を行うすべての人に問いたい。「その言葉は誰かを傷つけていないか?」「自分の自由のために、他人の尊厳を犠牲にしていないか?」と。自由とは、責任と共にあって初めて尊い価値となる。表現の自由の名の下に、誰かを傷つけることが“当然”とされる社会にしてはならない。
川滿憲忠