独身バックパッカーのアフリカ縦断記:タンザニアの大地で迎えた3日目
バックパッカーとしてアフリカの大地に足を踏み入れた三日目。タンザニアの小さな町で目覚めた私は、まだ身体に昨日の疲れを残しながらも、朝の光に包まれてゆっくりと動き出した。独身時代の私は自由を渇望しており、日本にいるときには到底できない経験を求めてこの地にやってきた。そんな私にとって、三日目の朝は、すでに「旅人」としての感覚が少しずつ馴染み始めている瞬間だった。
宿泊した安宿は、コンクリートの壁にシンプルなベッドが置かれただけの部屋。だが、窓から差し込む朝日と、遠くで聞こえる祈りの声、そして通りを行き交う人々の足音が「異国での朝」を強く印象づけていた。日本の便利さや快適さから離れたこの環境に、戸惑いながらもどこか心が解き放たれていく。これがバックパッカーとして旅をする醍醐味だと、すでに身体が理解していた。
朝食は屋台で買ったチャパティと紅茶。チャパティの香ばしい風味と、砂糖がたっぷり入った紅茶の甘さが、空腹の胃袋に心地よく染み渡る。食べながら、屋台のおじさんや隣で同じように食べていた子どもたちと笑顔で目を合わせた。言葉は通じなくても、笑顔が会話の代わりになる。アフリカの地でそれを体感するたび、旅は単なる移動ではなく、人と人との触れ合いの積み重ねなのだと強く思わされる。
その後、私は地元のバスに乗り込み、次の目的地となる村へ向かうことにした。バスといっても日本の感覚とはまるで違う。ぎゅうぎゅう詰めで、座席は狭く、揺れは激しい。窓からは赤土の大地がどこまでも広がり、ところどころに立つバオバブの木が異世界のような風景を形作っていた。その荒々しい自然に目を奪われながらも、同じバスに乗っていた人々との距離の近さに心が温まる。隣に座った女性は、私に自家製のナッツを差し出してくれた。見知らぬ異国の旅人に対しても惜しみなく分け与えるその優しさに、思わず胸が熱くなった。
村に着くと、子どもたちが一斉に駆け寄ってきた。カメラを持っていた私は、笑顔でレンズを向けると、彼らは無邪気にポーズを決め、笑い声を響かせた。日本で暮らしていると、子どもたちが知らない大人にこれほど無防備に近づく光景はなかなか見られない。貧しいながらも、彼らの目の輝きや笑顔は力強く、生きることそのもののエネルギーに満ちていた。その姿に触れるたび、私は「生きることの本質とは何か」を自分の中に問いかけることになる。
昼食は村の小さな食堂で食べた。豆の煮込みとウガリ(トウモロコシの粉を練った主食)、それに少しの野菜。シンプルながらも腹を満たしてくれる味で、何より「同じ釜の飯を食う」という経験が心に残った。食堂のおばさんは、私にとって母親のような存在に感じられ、旅人を受け入れてくれる懐の深さを象徴していた。
午後は村を散歩しながら、人々の日常に触れていった。畑を耕す人、川で洗濯をする女性たち、木陰で将棋のようなゲームを楽しむ男性たち…。どれも観光地では味わえない、本当の生活の息づかいだった。私がカメラを構えると、彼らは笑顔で応じ、時には一緒に遊びに誘ってくれる。旅は孤独なものだと思っていたが、こうして現地の人々と交わる時間は、孤独を埋めて余りあるほどの豊かさをもたらしてくれる。
夕暮れ時、赤い夕日が地平線に沈んでいく光景を眺めながら、私は今日一日の出来事を振り返った。観光地を巡るだけでは得られない出会いや感情が、バックパッカーとしての旅を特別なものにしてくれる。タンザニアの大地で迎えた三日目は、私に「生きることの美しさ」を強烈に突きつけてきた。
夜になると、村の人たちが焚き火を囲んで歌い始めた。その輪の中に招かれた私は、言葉が分からないながらも手拍子を合わせ、笑顔で肩を並べた。音楽は言葉を超えて人を繋げる。星空の下で響く歌声に包まれながら、私は深い安堵感を覚えた。この瞬間こそが旅の醍醐味であり、人生の記憶として一生残るだろうと確信した。
三日目の夜、ベッドに横たわりながら私は思った。日本での日常では出会えない「人の優しさ」「自然の雄大さ」「生きることの力強さ」を全身で受け止めることができた。独身時代、自由を求めて選んだこの旅は、私を確実に変えている。まだ始まったばかりの30日間の旅。これからどんな出会いや試練が待ち受けているのか、期待と少しの不安を胸に眠りについた。