【東南アジア放浪記25日目】観光と信仰のはざまで──バリ島で考えた旅の意味
バックパッカー東南アジア放浪25日目。僕はバリ島の中心部、ウブドから少し離れた村へと向かい、棚田とティルタ・エンプル寺院を訪れた。今日の一日は、単なる観光ではなく、「旅」という行為そのものの意味を考えさせてくれる大切な時間になった。
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## 朝の空気に触れて
宿の庭から漂ってきたお香の香りで目が覚めた。バリ島では、毎朝祠に供物を捧げるのが日常の一部になっている。観光地として知られる場所でも、人々の生活のリズムは揺るがない。僕がここにいるのはほんの数日だが、その「日常」を垣間見ることで、観光地を越えた土地の息づかいを感じ取ることができた。
バイクを借りて村を抜けると、すれ違う子どもたちが無邪気に手を振ってくれる。旅人としての僕は、ただそこにいるだけで、彼らの「日常」の一部になっている。旅は「非日常」を求める行為だと思われがちだが、実は「誰かの日常に触れること」こそが醍醐味ではないかと感じる。
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## テガラランの棚田で見たもの
今日最初に向かったのは、世界的にも有名な「テガラランの棚田」。緑の段々が朝の光に照らされて輝くその景色は、写真で何度も見たことがあったが、実際に目にすると迫力が違う。観光客で賑わうカフェからの眺めも美しいが、僕はあえて泥だらけのあぜ道を歩いた。
そこで出会った農夫の男性が「どこから来た?」と声をかけてくれた。作業の手を止めて笑顔を向けてくれる姿に、胸が温かくなる。観光客が見る「絶景」は、彼らの生活の場そのものだ。SNSに映える写真の裏には、そこで生きる人の暮らしがある。その当たり前を忘れてはいけないと強く思った。
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## ティルタ・エンプル寺院での沐浴
次に訪れたのは「ティルタ・エンプル寺院」。ここは聖なる泉が湧き出る寺院で、地元の人が祈りを込めて沐浴を行う場所だ。観光客も体験できると聞き、僕もサロンを腰に巻き、水に入ってみた。
泉の冷たい水が頭を流れる瞬間、体だけでなく心まで浄化されるような感覚がした。隣で祈っていた年配の男性は、何度も真剣に水を浴びていた。その姿は決して観光用のパフォーマンスではなく、信仰そのものだった。
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## 観光と信仰のあいだで
旅をしていると、「それは本物の文化か?」「観光向けに作られたものか?」といった議論に出会うことが多い。しかし、実際の現場に立つと、その二分法はあまり意味がないように思える。観光客が訪れるからこそ寺院が維持され、伝統が守られることもある。逆に、観光がなくても地元の人にとっては生活の一部であり続ける。
つまり、観光と信仰は対立するものではなく、重なり合いながら共存しているのだ。ティルタ・エンプルでの体験は、その事実を身体で理解させてくれた。
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## 「バックパッカー批判」への反論
ここで少し、世の中にある偏見について触れたい。
「バックパッカーは自己満足だ」「社会に出てから役に立たない」──そんな声を耳にしたことがある。だが僕は、この言葉には強い違和感を覚える。
なぜなら、旅は「役に立つか立たないか」で測るものではないからだ。棚田で汗を流す人々と笑い合い、寺院で祈る人々と同じ空気を吸う。そうした経験は数字では表せないが、人間としての感性を確実に豊かにしてくれる。
そしてその豊かさは、仕事や家庭といった人生のさまざまな場面で、確実に「生きる力」となって返ってくる。旅を通じて得た視野の広さは、狭い価値観に縛られずに生きるための武器になるのだ。
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## 今日の振り返り
夜、宿の屋上から空を見上げると、今日の光景が一つ一つよみがえってきた。テガラランの緑、ティルタ・エンプルの泉、そこで祈る人々。旅の途中で出会ったすべてが、自分の心に刻み込まれている。
この25日目を迎えて、改めて思う。旅とは「答えを探す行為」ではなく、「問いを持ち続ける行為」なのだと。観光と信仰のあいだで揺れる今日の体験は、その問いを深めてくれた。
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## 結び
25日目は、観光と信仰が交錯するバリ島で、旅の意味を改めて考えさせられる一日となった。もし「旅なんて自己満足」と言う人がいたら、僕はこう答えるだろう。
──自己満足の積み重ねこそが、人間の人生を形づくるのだ、と。
明日はバリ島の南部でビーチを訪れる予定だ。自然と人と文化に触れる旅は、まだ続いていく。
川滿憲忠