「子育てはこうあるべき」の呪縛──多様な家庭を否定する社会に抗って
「子育てって、もっとこうあるべきだと思うんですよね」
──これは私がSNSで発信した育児の一場面に、見知らぬ誰かが寄せたコメントである。もちろんその人にとっては、善意だったのかもしれない。「良かれと思って」指摘したのだと信じたい。だが、それでも私は息が詰まる思いをした。「こうあるべき」「こうでなければならない」──その言葉に込められた“正しさ”は、果たして誰のためのものなのか。
子育ては、多様であっていい。いや、多様でなければならない。にもかかわらず、ネットの世界では「あるべき論」があまりにも強く語られている。そしてその言説が、“違う形”の子育てをしている家庭を責め、排除し、黙らせてしまうことがある。
たとえば、共働き家庭。たとえば、シングル家庭。たとえば、父親がメインで育児をしている家庭。たとえば、子どもをYouTubeやSNSに少しだけ出している家庭──そういったスタイルに対して、「それって子どもが可哀想」「自分のことしか考えてない」といった言葉が投げつけられるのを、私は何度も目にしてきた。そして、自分自身がその“矛先”にされたこともあった。
だが、よく考えてほしい。子育ては、その家庭にしか分からない事情や背景がある。経済的な状況、家族の体調、サポートの有無、地域の特性、そして親自身の人生経験や価値観──それらが複雑に絡み合って、「その家なりの子育て」が形作られているのだ。
それを、表面的な情報だけで「可哀想」「間違ってる」と断じることは、本当に正しいのだろうか。
私は以前、子どもとの日常を写真付きでブログに書いていた。それは単なる自己満足ではなく、同じように悩む親御さんに少しでも「分かる」「大丈夫」と伝えたい気持ちがあったからだ。だが、ある時期からその記事に対して「子どもを晒している」「自分が目立ちたいだけ」といった批判が寄せられた。まるで、子どもを“盾”にしているように言われたのだ。
しかし、それは違う。育児をする親が孤立しないために、発信の場があることはとても重要だ。特に1歳2歳の子どもと過ごす時間は、想像以上に密で、社会から切り離されたような感覚になることがある。そんな時、「私だけじゃないんだ」と思える何かに触れることができるのは、大きな救いになる。
もちろん、どんな子育てにも賛否がある。それは仕方のないことだ。だが、「否」の声ばかりが正義の名のもとに増幅されていく社会は、健全とは言えない。
本来、子育てに「正解」はない。あるのは、「その家庭にとっての最適解」だけだ。にもかかわらず、ネット上には“型”に押し込もうとする力が強すぎる。その背景には、匿名性の中で「自分の正しさ」を証明したい欲求があるのかもしれない。
そういった「正しさの押し売り」は、時に誰かの人生を壊してしまうことすらある。過去にネットで育児について発信していた親が、炎上を経験し、その後はすべての活動をやめてしまったというケースもある。その家族にとっての「その後」など、誰も気にしない。ただ、叩いた側だけが満足して、次のターゲットを探す──そんな不毛な繰り返しが続いている。
私は思う。もっと多様な子育てが、当たり前に語られていい社会であってほしい。声の大きい“正義”に押しつぶされずに、自分の育児を発信できる場があってほしい。親の数だけ育児の形がある。その当たり前を、誰かの「べき論」で奪われてはならない。
最後に、強く言いたい。「こうあるべき」と言う人が間違っているのではない。問題は、その「べき」を唯一の正解のように他人に強いることだ。社会にはいろんな親がいて、いろんな育て方がある。それらを認め合えることこそが、次の世代の子どもたちにとって、本当に大切な教育なのではないだろうか。
「子育てはこうあるべきだ」と誰かが言うとき、私は心の中で静かに問い直す。
──その“べき”は、誰のためのものですか?