子どもの自己肯定感を奪う“教育的虐待”──過干渉や無意識の支配に向き合う

 「うちの子のためを思ってやってるのに」。  

その言葉が口から出た瞬間、私たちは“教育的虐待”の入り口に立っているのかもしれない。


子どもの将来を考え、可能性を広げたいと願う親心。それは自然で、尊い想いだ。しかしその想いが、子どもの意思や感情を押しつぶし、「良かれと思って」の名のもとに自己肯定感を奪ってしまうことがある。これは何も、暴力や暴言を伴う虐待の話ではない。もっと静かで、見えにくく、しかし確実に子どもを苦しめる“教育的虐待”の話だ。


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■ 教育的虐待とはなにか?


「虐待」と聞くと、怒鳴ったり叩いたりといった、目に見える行為を思い浮かべる人も多いだろう。しかし、教育の名のもとに行われる干渉や支配には、外からは見えにくい“心理的虐待”がある。


たとえば、テストで90点を取った子どもに対して「どうしてあと10点取れなかったの?」と問い詰める。運動会で2位だった子に「なんで1位じゃないの?」と責める。「もっとできるはず」「あなたのため」という常套句が、子どもにとっては“否定”として響いてしまうのだ。


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■ 無意識の支配とその深刻さ


もっと深刻なのは、親が自覚なしに子どもを支配してしまっているケースだ。


「お母さんの言うとおりにしていれば安心」  

「この道を選べば間違いないから」  

「◯◯ちゃんはもっと頑張ってるのに、あなたは?」


こうした言葉の根底にあるのは、“子どもを信じていない”という無意識のメッセージだ。進路、習い事、服装、交友関係にいたるまで、親が一方的に舵を握ることで、子どもは次第に「自分で考えること」「選ぶこと」に恐怖を感じるようになる。


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■ 自己肯定感を削られた子どもに起こること


教育的虐待の最大の問題は、子どもの内面に深く傷を残すことだ。  

・自分で決断できない  

・常に“正解”を求めるようになる  

・他人の期待を軸に生きてしまう  

・自己評価が極端に低く、褒められても受け取れない


こうして育った子どもは、やがて大人になってからも「誰かの期待に応え続ける人生」から抜け出せず、自分を肯定できないまま生きることになる。


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■ 大切なのは「見守る勇気」


教育とは、型にはめることではなく、個を尊重し、育てることだ。


失敗を恐れず挑戦する機会  

親の期待よりも、自分の声を聴く時間  

「あなたはあなたのままで大丈夫」と言ってもらえる安心感


それらが、子どもの自己肯定感の土台になる。


親にできる最も大切な支援は、「信じて、待つこと」だ。子どもが自分の力で壁を乗り越えた時、その経験は何よりの自己肯定感に変わる。失敗しても、立ち直れる力を育てることが、教育の本質なのだ。


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■ 最後に──「教育の名を借りた支配」に抗う視点


私たちはいつでも“教育的虐待”の加害者になりうる。


社会の正義やSNSでの声に流され、「こうあるべき」と思い込んでしまう瞬間は、どの家庭にもある。だが、そこに気づき、立ち止まり、自らの言動を見直すことができるなら、それは“カウンター”になる。


子どもは親の持ち物ではない。  

一人の人間として、尊重され、信じられるべき存在である。  

その視点を見失わないことこそが、現代の家庭教育における最も大切な姿勢ではないか。


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この文章は、あらゆる「誤った正義」によって子育てが苦しくなる時代に対して、もう一度“家庭とは何か”を問い直す試みである。  

少しでも、誰かの視界が晴れるきっかけになれば幸いです。


川滿憲忠

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