“親ガチャ”という言葉が生む誤解──家庭環境を語るときに見落とされる視点
「親ガチャ」──この言葉を初めて聞いたとき、私は正直、複雑な感情を抱いた。
家庭環境や親の資産、価値観や教育方針を“ガチャ(運任せ)”にたとえる感覚は、確かに現代の格差社会において一定のリアリティを帯びている。経済力、学歴、住む地域、さらには親の性格まで、子どもには選ぶことができない。だからこそ「親ガチャに外れた」と感じる人が現れるのも無理はないのかもしれない。
だが、果たしてこの言葉は、社会や家庭を語る上で本当に“正義”なのだろうか。
この表現には、いくつかの危険な落とし穴がある。
第一に、「親ガチャ」という言葉は、自分の人生を過度に“親の責任”に帰属させる視点を助長する危険性がある。「親が○○だったから自分はこうなった」という認識は、確かに部分的には正しいかもしれない。しかしそれだけで説明できるほど、人の人生は単純ではない。
たとえば、裕福な家庭であっても親が過干渉で自己肯定感を育めなかった人もいれば、決して裕福ではなくても親が子どもの意思を尊重し、その結果豊かな心を育んだケースもある。つまり、親の「スペック」だけでは測れない複雑な要素が家庭には存在するのだ。
第二に、「親ガチャ」という表現は、親自身の努力や苦悩を無視する危険性がある。多くの親は、自らの育児環境に悩み、限られた選択肢の中で子どもにとって最善を模索している。仕事と育児の両立、社会的孤立、経済的プレッシャー、そしてSNS時代ならではの“見られる育児”の緊張感。そうした中で日々格闘している親の姿を、“ガチャで外れ”と一言で切り捨てることは、あまりにも乱暴ではないか。
第三に、「親ガチャ」は家庭環境の“多様性”を否定しやすい言葉だ。価値観が異なる親子関係もあれば、いびつだけど支え合っている家族もある。すべての親子関係が理想的である必要はないし、外から見えない愛情や絆もある。それを、外形的な条件で「当たり」「ハズレ」と分けることは、社会全体に対して「一つの正解しか認めない」空気を生み出しかねない。
もちろん、「親ガチャ」という言葉が登場する背景には、日本社会の構造的な問題がある。教育格差、地域差、支援制度の不備──こうした課題を無視して、個人の努力だけで乗り越えろというのもまた不誠実だ。だからこそ、本質的には「家庭の責任」ではなく、「社会の責任」として語られるべき領域があることは否定しない。
しかし、だからといって親という存在を“失敗作”のように扱う風潮は、健全な社会を築く上で大きな障害になる。批判や断罪ではなく、「どうすれば子どもが自分の人生を肯定的に歩めるか」「どうすれば親が支援され、孤立せずに子育てできるか」にこそ、目を向けるべきではないか。
「親ガチャ」ではなく、「家庭の物語」として自分自身の歩みを語ること。
それは、どんな親であっても自分なりの愛情を注いでいたかもしれないという想像力を持つこと。そして、自分自身がこれからどんな“親”や“大人”になっていくかという、未来志向の視点を取り戻すことでもある。
親と子の関係は、機械で排出されるガチャではない。
それは、生きて、ぶつかり合い、変化し、共に成長していく「過程」なのだ。
一度きりの「当たり/ハズレ」ではなく、
繰り返し更新される関係の中で、私たちは自分の人生を再構築していける。
“親ガチャ”という短絡的な言葉の裏に隠された、多くの声なき声に光をあてたい。
それが、この記事を書く私・川滿憲忠の願いである。