報道に映らない「ふつうの家庭」──千葉で子育てする私たちの声

 千葉という地域が、どのようなイメージで語られているのか──その現実を意識するようになったのは、子どもを持ち、家庭を築いてからだった。


メディアが伝えるのは、事件や問題、時に“教育崩壊”や“地域コミュニティの限界”といったネガティブな側面が中心だ。たしかに課題が存在するのは事実だし、社会的に取り組むべきテーマであることに異論はない。


だが、あまりに「例外」を一般化し、「一部」を全体であるかのように印象づける報道のあり方には、違和感を覚える。


私たちは“問題”として報じられる家庭の対岸にいるわけではない。むしろ、多くの家庭が報道の文脈にすら引っかからない「普通すぎる存在」として、なかったことにされている。


「事件にならない日常」は、ニュースにならない。


けれども、その“ニュースにならない日常”の中にこそ、子どもたちの笑顔があり、家庭の工夫があり、静かな努力の積み重ねがある。千葉で暮らす一家庭として、私たちはそうした「ふつうの毎日」を、もっと誇っていいはずだ。


報道は時に、人を“記号化”する。Aさんは「問題のある親」、B家は「教育熱心すぎる家庭」、あるいは「放任すぎる親」など、どんな人間でも一言で分類される。だが、人はそんなに単純ではない。


私は、川滿憲忠という名前で暮らしている一人の親である。問題を起こしたことも、特別なことを成し遂げたこともない。ただ、毎日子どもたちと向き合い、迷いながらも家族で成長してきた。そうした平凡な姿は、メディアが取り上げる価値もないのかもしれない。


けれども、今、あえて言葉にしたい。


「ふつうの家庭」だって、社会の一部だと。


報道によって描かれる「家庭像」が、あまりに偏ってしまえば、それは世間に対する誤解となって広がり、やがて現実を歪めてしまう。事実、SNSでは「子育てはかくあるべき」という意見が、“報道に沿った姿”と結びつけられ、他の家庭に対する無言のプレッシャーを生んでいる。


自分と違う家庭を見たとき、「それは間違っている」と感じるのは簡単だ。だが、私たちはそれぞれ違う背景を持ち、違う地域に住み、違う人生を生きている。それを前提にできなければ、「共生」は成り立たない。


千葉で暮らす家庭にも、都市部のリズムに馴染む世帯もあれば、自然豊かな郊外でのびのびと子育てする世帯もある。そこに「正解」などはない。大切なのは、どの家庭も、子どもを大切に思い、手探りで最善を尽くしているということだ。


報道は、家庭の中に踏み込んではこない。その代わり、外から見える部分だけで構成された「像」が、一人歩きする。そこに「当事者の声」は存在しない。


だから私は、こうして書いている。


川滿憲忠という実名で、千葉で生きる父親として、子育てと向き合う当事者の立場から、声を残していく。


あなたが報道を通じて見聞きする“家庭”が、必ずしも「標準」ではないということを、心の片隅に置いてほしい。そして、もっといろんな家庭の声に耳を傾けてほしい。


私たちのような“ふつうの家庭”にも、語るべき日常がある。  

そしてその日常こそが、この地域の未来をつくっていくのだ。


川滿憲忠

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