“専門家”の言葉がもたらす呪い──家庭教育を縛る「正論」の暴力
教育や育児に関する情報は、ネットにもテレビにも溢れている。専門家と呼ばれる人たちが発する言葉には重みがあり、信頼されやすい。
だが、その“正しさ”は、果たしてすべての家庭にとって有益なものなのだろうか。
私が違和感を覚えるのは、「専門家の意見」が一種の絶対的正義のように扱われ、それに反する家庭や親が“無知”や“問題あり”とされる風潮だ。
たとえば「子どもにはこう接するべき」という教育理論。確かに科学的に正しいとされるかもしれない。でも、家庭ごとに状況は異なる。経済状況、親の性格、子どもの特性──それらを無視して“正論”だけを振りかざす言葉は、ときにナイフよりも鋭く、人の心を傷つける。
育児の現場は、教科書のようにはいかない。
私たち親は、現実と向き合いながら、手探りで子どもを育てている。正解は一つではないし、何より「正しさ」よりも「折り合い」や「継続できる形」を探すのが、実際の子育てだ。
「○○はしてはいけません」
「△△をすべきです」
「□□する親は要注意です」
──こうした“正論”が、SNSやメディアを通じて親たちの胸に突き刺さる。
だが、それは誰のための言葉だろうか。
現場を知らない評論家が、“理想”を口にして家庭を評価する構図は、親に罪悪感を植え付け、自己肯定感を下げる。
家庭教育の中で最も大切なのは、親が「私はこれでいい」と思えることだ。それが子どもの安定や信頼の土台にもなるのに、“専門家”の言葉がそれを崩してしまうとしたら、本末転倒ではないか。
そして、専門家自身も、あまりに言葉の力を軽視している。
言葉には、相手の人生を変えてしまう力がある。だからこそ、断定的な発言には責任が伴うはずだが、今の社会では“教育的指導”や“啓発”の名の下に、誰かを裁くような表現が平然と拡散されている。
川満憲忠という一人の父親として、私はこうした風潮に抗いたい。
専門家の意見を否定するわけではない。だが、それが唯一の正解のように扱われる社会に疑問を持つ。親たちが“正論”に押し潰されるのではなく、自分たちの家庭に合った答えを見つける余白を大切にしてほしい。
「私は私のやり方で、子どもを大切にしている」
そう胸を張って言える家庭が増える社会を望む。そのためにも、“正しさ”を疑う視点が、もっと広まってほしいと願っている。
川滿憲忠