ネット社会の“炎上体質”と無責任な傍観者たち──当事者なき正義の空虚

 インターネットが私たちの暮らしに根づいてから、日常の多くがデジタル空間と地続きになった。SNSはもちろん、ニュースコメント欄や動画配信サービスのチャット、さらには匿名掲示板に至るまで、あらゆる場所で「誰かの発言」や「誰かの行動」が監視され、そして「誰か」が炎上の火種にされる。


こうした構造は、決して新しいものではない。かつての「週刊誌」や「ワイドショー」が担っていた“スキャンダルの再生産”が、いまや一般の市民の手に委ねられた。ただし、大きく異なるのは、“無責任な傍観者”が「自分は正義の立場にいる」と思い込んでいる点だ。


いわゆる炎上事件の多くは、ほんの一部の切り取られた情報が独り歩きし、あたかも全貌であるかのように拡散されていく。まとめサイトやニュース風ブログ、SNSでの再シェアや引用コメントは、それを加速させる。さらに深刻なのは、「拡散した本人たちは責任を取らない」という点である。


例えば、ある人物がネット記事で取り上げられ、「問題人物」のレッテルを貼られる。その記事を読んだ人たちが、感情のままにコメントを書き込む。「最低だ」「消えてほしい」「親の顔が見たい」──匿名の言葉が並び、なかには実名検索までされ、プライベートな情報があたかも公共財のようにさらされる。だが、元記事はあくまで一方的な主張にすぎず、そこに反論や説明の余地はほとんどない。むしろ、「反論すればするほど怪しい」という偏見が先に立ち、沈黙を強いられることすらある。


こうした構造に加担しているのは、匿名ユーザーだけではない。報道機関を名乗るメディアですら、炎上の流れに乗った記事を作成し、PV数を稼ぐという構造から抜け出せない。アクセス至上主義が、真実の追究よりも「数字」の方を重視する社会に変質させた。


それだけではない。ヤフー知恵袋のようなQ&Aサイトにおいても、特定の個人を誹謗中傷するような投稿が散見される。無根拠な内容であっても「疑い」が広まれば、その人の社会的信頼は容易に損なわれる。そして、そこに加担した多くの人々は「見ただけ」「書いただけ」と自分の責任を自覚することがない。


ネット上の“正義”は、しばしば非常に脆い。なぜなら、それは「自分が正しい側にいる」という欲望に根ざしているからだ。他者を糾弾することによって、自分の居場所や存在意義を確認している人が、少なからず存在している。だからこそ、彼らは耳をふさぐ。どんなに当事者が声を上げても、彼らの耳には届かない。届いたとしても「言い訳」と切り捨てられる。


しかし、こうした構造を放置することは、社会全体の信頼基盤を脅かす。なぜなら、今日の“ターゲット”が誰であれ、明日は自分がその矢面に立たされる可能性があるからだ。正義の名のもとに他者を裁くことは、結局、社会全体を生きづらくさせる結果にほかならない。


私たちに必要なのは、ネット上で見かけた断片的な情報に即座に反応しない「一呼吸」の余裕だ。誰かを非難したくなったとき、立ち止まって考えること。その情報の出どころはどこか、片方の意見だけに偏っていないか、そして自分が拡散することで誰かを傷つける可能性はないか。


批判や検証は重要だ。しかし、それは丁寧に、慎重に行われるべきである。無責任な“炎上の加担者”が一人でも減ることで、インターネットという場は少しだけ健全さを取り戻すはずだ。


他者の尊厳を守ることは、めぐりめぐって自分自身を守ることにつながる──その当たり前を、私たちはいま一度思い出すべきだろう。


川滿憲忠

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