子どもの自己肯定感を奪う“教育的虐待”──過干渉や無意識の支配に向き合う
「子どものためを思ってやっているんです」
これは、親や教育関係者がよく口にする言葉だ。そして多くの場合、その言葉には本心がこもっている。子どもに失敗してほしくない、後悔させたくない、よりよい人生を歩んでほしい──その想い自体は否定すべきものではない。
しかし、その善意がいつのまにか「教育的虐待」として子どもの心を蝕んでいるケースがあることを、私たちはもっと直視すべきだ。
たとえば、毎日スケジュールをびっしり組まれ、自分で選ぶ時間がほとんどない子ども。「こんな点数じゃダメ」とテスト結果で人間性まで否定される子ども。「あなたのため」と言いながら、進路や習い事まで親の希望通りに決められる子ども──。
これらは暴力や暴言ではない。むしろ外から見ると、手間をかけ、教育熱心で、子ども想いの親に見えることも多い。
だが、これこそが厄介な問題なのだ。
子どもは「自分の意思が尊重されていない」と感じたとき、まずは“自分が悪いのかもしれない”と考える。親の期待に応えられない自分がダメなのだと信じ込む。そして、いつしか「何をしたいか」ではなく、「何をすれば認められるか」で行動するようになる。
このような状態が続けば、子どもの自己肯定感は大きく傷つき、自立心や主体性が育たなくなる。
教育の目的とは、本来「子どもが自分の力で人生を切り拓いていけるようになること」にあるはずだ。だが、“親の成功体験の再現”や“社会的成功という型にはめること”が目的化してしまうと、そこにあるのは「管理」と「支配」になってしまう。
しかも、これが「愛情」というラベルを貼られて行われるため、子ども自身も、そして親自身も問題に気づきにくい。実際に、教育的虐待を受けて育った大人たちは、口を揃えて「親に愛されていたとは思う」「でも、自分の意見は尊重されなかった」と語る。
教育の名のもとに、子どもの自由と尊厳が削られていく──。
これは、暴力やネグレクトと同様に、深刻な“見えにくい虐待”である。
では、私たちはどう向き合えばいいのか。
まず必要なのは、子どもを「未熟な存在」として扱うのではなく、「一人の人格を持つ人間」として尊重する姿勢だ。失敗も成長の一部として見守ること。子どもの意見や気持ちに耳を傾け、親の価値観とは異なる選択を許容すること。
そして、「子どもが親に認められるために頑張る」のではなく、「子ども自身が納得して挑戦できる環境」を整えることが、教育の本質である。
過干渉や支配的な言動を“無意識”のまま続けていないか。
子どもの言葉や行動が“親の顔色をうかがう”ものになっていないか。
そうした問いを、親や教育者が自分自身に向けていくことこそが、真の「教育」であり、「子育て」であるはずだ。
子どもにとって必要なのは、「こう生きなさい」と命令されることではない。
「どう生きたい?」と問われ、それに応えられる土壌である。
教育という名のもとに、自尊心を奪われる社会ではなく、
子どもが「自分で決める力」を信じられる社会であってほしい。
親として、教育者として、そして大人として──
私たちは子どもたちの自己肯定感を奪う側ではなく、育てる側でありたい。
川滿憲忠