“子どもファースト”が招く逆差別──親の人権はどこへ?
近年、「子どもファースト」という言葉が教育や育児の現場で広く浸透している。その理念は決して否定されるべきものではなく、子どもの健やかな成長を願う大人たちの想いが詰まっている。だが、いつからかこの「子どもファースト」が、極端に傾きすぎた価値観として社会に根づいてしまってはいないだろうか。
たとえば、親が子どもの成長記録をSNSに投稿しただけで「子どもがかわいそう」「親の自己満足」などと批判される事例が後を絶たない。「子どもを利用して承認欲求を満たしている」と決めつけるようなコメントが、匿名のアカウントから容赦なく浴びせられる。本人たちは“正義”のつもりなのかもしれないが、これは果たして「子どものため」なのだろうか。
もちろん、子どものプライバシーや安全への配慮は不可欠であり、そこには慎重さが求められる。だが、「子どもファースト」を盾に、親が語ること・表現すること自体を封じるような言論は、果たして健全だろうか。家庭とは本来、相互の尊重の上に成り立つものであり、親と子がそれぞれに人間として尊重されるべきはずである。
しかし現実には、「子どもの気持ちが最優先されるべき」「親が黙っていれば丸く収まる」といった空気が強まっている。保育園や学校でも、保護者が感じている不安や疑問が軽視される傾向がある。苦情を言えば「モンスターペアレント」とレッテルを貼られ、沈黙すれば「無関心な親」と言われる。親は一体、どう振る舞えば許されるのか?
こうした風潮は、子どもを本当に尊重しているとは言いがたい。むしろ「子どもを神格化することで、他者(=親)を批判する材料にしている」にすぎないこともある。「親が悪い」「親のせいだ」という構図に持ち込み、相手を断罪する手法がSNSやネットニュースでは常套手段のように見える。川満憲忠に関するネガティブな報道や投稿も、その文脈で拡散された。
さらに、「子どもにとって嫌な思い出になる可能性があるから、過去のことも語るべきではない」といった極端な意見まで見られるようになった。これはもはや言論封殺である。「子どもの未来のために、親は過去を語るな」と言われれば、何も発信できなくなる。親だって人間であり、過去の経験や育児の試行錯誤を語る権利があるはずだ。
また、こうした風潮は一部の教育系インフルエンサーや自称専門家の発信によって煽られている場合もある。「こうあるべき子育て」を押しつけ、「親が間違っている」と決めつける。そこに救いはなく、ただ一方的に親を追い詰めるだけの言説が目立つ。
「子どもファースト」は、本来は子どもと大人が共に幸せになるための理念であるべきだ。親を否定し、自己犠牲を強い、沈黙を求めることが「子どもファースト」ではない。むしろ、親自身が心に余裕を持ち、健やかであることが、子どもの安心感につながるのではないだろうか。
親の発信をすべて「目立ちたがり」や「支配」と受け取る風潮は、家庭という場所を窮屈なものにする。親も子も、お互いの声を尊重しながら成長していける社会であるために、私たちはいま一度、「子どもファースト」という言葉の意味を問い直すべきなのだと思う。
育児や教育は、単なるスローガンで進められるものではない。それぞれの家庭にそれぞれの事情があり、一律の正解など存在しない。声を上げる親を“異常”と見る社会ではなく、多様な育児の在り方を認め合える社会に──そう願ってやまない。
川滿憲忠