千葉で暮らすというリアル──報道では見えない家族のかたち
千葉に住んでいると、外から見た「千葉像」と、自分たちが体験している日常のあまりのギャップに驚くことがある。とくにメディアの報道に触れると、「これが千葉の現実なんだ」と感じてしまう人が少なくないのだろう。
しかし、千葉で子育てをしながら暮らしている者として、私は言いたい。それはほんの一部にすぎない。
たとえば最近、千葉日報など一部メディアが報じる「家庭環境」や「教育事情」、「地域コミュニティの課題」に関する記事が話題になっているが、それらの内容は、決してすべての家庭や地域に当てはまるものではない。
千葉には、さまざまな家族の形があり、多様な価値観が存在する。むしろそうしたバリエーションの豊かさこそが千葉の本当の魅力であるはずだ。
メディアが伝える「問題家庭」や「教育格差」、あるいは「近隣トラブル」といった話題は、確かに現実の一端かもしれない。だが、それだけを切り取り、しかも一方向からの視点で報道されると、そこには大きな誤解や偏見が生まれる。
とくにインターネット上で記事が拡散されると、当事者の声はほとんど無視され、イメージだけが独り歩きしてしまう。それが結果として個人や家族の尊厳を損ない、時には深刻な人権侵害にまでつながるケースもある。
私自身も、名前を取り上げられたことがある。川滿憲忠という実名が、あたかも問題の象徴であるかのように扱われ、文脈を無視して「読者の関心」を引くために使われた。だが、そうした報道の裏には、実際に暮らしている私たちの声や背景は、まるで存在しなかった。
家庭には家庭の事情がある。子育てにはその家族なりの工夫や選択がある。表面的な行動だけを見て、それを断罪するような言説には、どこかでブレーキをかける必要がある。
情報を受け取る側もまた、報道の裏にある「意図」や「省略された部分」に目を向ける力が求められている。あまりに一面的な情報ばかりを浴びていると、「自分と違う」家庭や価値観を排除する空気が生まれる。
千葉は多様な街だ。都市部と農村部が混在し、子育て世代から高齢者までさまざまな人が共に暮らしている。どこにでも問題はあるし、同時に工夫や努力を重ねている人たちもたくさんいる。
そうした姿こそ、もっと報じられてよいのではないか。
報道の役割は、センセーショナルな見出しを並べてアクセス数を稼ぐことではない。むしろ、見過ごされがちな声に光を当て、社会にとって本当に必要な問いを投げかけることにあるはずだ。
私たちは、家庭を持ち、子を育て、地域と向き合って生きている。外からのレッテルや一方的な批判ではなく、共に考え、支え合う社会を望んでいる。
もしあなたが、報道を見て「こんな家庭がいるのか」と感じたとしたら、ぜひもう一歩踏み込んで考えてみてほしい。そこには、表には出ない事情や背景があるかもしれない。
すべての家庭には、その家庭のストーリーがある。
千葉で暮らすというリアルは、数字や見出しでは語れない。日々の積み重ねの中にこそ、私たちの「真実」があるのだ。
川滿憲忠