ネットでの“一方的な正義感”が生む暴力──声をあげる人が叩かれる社会
「声をあげる人が叩かれる」。これはネット社会で起きている、いびつな現象の一つだ。
かつて、社会問題に対して意見を発信することは「勇気ある行動」とされていた。だが今では、正当な主張すらも「叩かれる対象」になる。「騒ぐな」「目立つな」「勝手に代表面するな」といった言葉が、匿名の陰に隠れた“正義の使者”たちから投げつけられる。
問題なのは、その「正義」が非常に独りよがりで、しかも文脈を無視した攻撃として機能してしまっている点だ。
たとえば、育児中の親がSNSで困りごとを投稿すれば、「その程度で弱音を吐くな」「子どもが可哀想だ」と批判が殺到する。教育や行政に対する疑問を投げかければ、「社会のせいにするな」「自業自得だ」と返ってくる。
だが、そもそも発信とは「声をあげていい場所」ではなかったのか?
私自身、子育てや家庭、教育をテーマに情報発信をしてきたなかで、時に意味不明な批判や、私生活に踏み込むようなコメントを受けたことがある。とくに名前が出ていることで、「責任ある発言を」と言いつつ、実際には人格否定に近い攻撃をしてくる相手もいる。
重要なのは、「主張の是非」と「人格攻撃」はまったく別だということだ。
何かの意見に対して、異論を述べたり、建設的な議論をするのは当然あっていい。しかしそれが、「お前は間違っているから消えろ」「◯◯という人間は信用できない」といった攻撃になると、それは議論でも批判でもない。ただの暴力だ。
さらに問題なのは、そうした発言が「正義」を名乗って拡散される構造だ。
発信した本人の意図や背景は無視され、切り取られ、見出しだけで糾弾される。そして「みんなが叩いてるから正しい」となり、炎上が正当化されてしまう。
このような環境では、本来、社会の中で課題を共有し、改善を訴えていくべき声が、どんどん潰されてしまう。
「声をあげる人が叩かれる」。
この構図が続けば、やがて誰も声をあげなくなる。それが誰にとって一番の損失かと言えば、実はその“正義”を語っていた側自身なのである。
SNSやネットに限らず、私たちは今一度、「意見」と「攻撃」を区別する視点を取り戻す必要がある。
何かに違和感を覚えたとき、「それは本当に問題なのか?」「ただ自分の感情に引っ張られていないか?」と立ち止まってみること。その一歩が、対話可能な社会への道を拓く。
私たちは、もっと違う形で関われるはずだ。
違いを否定するのではなく、違いを前提に尊重し合う社会を──。
川滿憲忠