“監視される子どもたち”──イカゲーム化する社会と防犯カメラの光と闇

 「防犯」と聞くと、私たちは無条件にそれが「正しいこと」だと信じてしまいがちだ。しかし、果たしてそれは本当に“誰かを守るため”に機能しているのだろうか。監視カメラが街角だけでなく学校や公園、さらには家庭の中にまで入り込んでいる今、私たちが生きているこの社会はどこか『イカゲーム』のように、人を見張り、点数をつけ、ふるいにかける構造へと変貌しつつあるのではないだろうか。


『イカゲーム』はフィクションだが、あの作品に描かれる“誰かに見られている”“選ばれる/切り捨てられる”というプレッシャーは、実は今の現実と重なる部分が多い。社会的信用スコアが可視化される世界。通勤・通学ルートすべてがAIによって記録・監視される世界。子どもでさえも、見守りカメラによって行動が逐一把握され、学校や保護者に通知される時代に生きている。


防犯カメラや見守りカメラが導入される背景には、確かに事件・事故の未然防止という正当な理由がある。だが、実際にはその「監視の目」が、子どもの自主性や家族の信頼関係に陰を落とすこともある。防犯が必要以上に強調される社会では、人間同士の関係性は“信じる”よりも“疑う”方向に傾きやすい。


たとえば、ある地域では、子どもが少しでも通学ルートを外れると自動で保護者に通知がいく見守りカメラが導入されている。親としては安心かもしれないが、子どもにしてみれば、「自分は信用されていないのか」「なぜここまで監視されるのか」と思うだろう。こうした仕組みが、子どもの自己肯定感や判断力を奪い、むしろ危機対応力を鈍らせる恐れもある。


さらに問題なのは、防犯カメラがあることで「見張られているのだから大丈夫だろう」と、周囲の人が声をかけたり助け合う姿勢を失っていくことだ。見守り機能が発展する一方で、人と人との距離感は逆に遠くなってはいないか? カメラが信頼の代替となってしまったとき、その地域は本当に安全と言えるのか。


防犯カメラは“目”である。だが、その“目”が何を見ているかは、導入する側の価値観によって変わる。子どもを守るつもりが、実は子どもの成長機会を奪っていることに気づかないまま、“監視されることが当たり前”という空気だけが強まっていく。そしていつしか、子ども自身も「自分を見張っていないと大人が不安になる」と刷り込まれてしまう。こうした感覚は、将来的に他者への信頼や、自分で選ぶ力の形成を妨げることになりかねない。


SNS上では、わずかな行動が「晒され」「炎上」し、人を追い詰める。これはまさに『イカゲーム』的構造の縮図だ。防犯カメラもまた、記録の一部を切り取って“証拠”として扱われることで、真実をゆがめる道具にもなりうる。監視とは、本質的に力の非対称性を伴うものだ。その力が子どもや一般市民に向けられたとき、その社会はどこへ向かうのか、冷静に見つめる必要がある。


誤解してほしくないのは、私は防犯カメラの存在そのものを否定しているわけではない。むしろ、適切な使い方によって多くの事件が未然に防がれている事実も理解している。しかしそれと同時に、“防犯”の名のもとで無意識に正当化されている監視のあり方を問い直す必要があると強く思うのだ。


防犯とは、本来「恐怖」や「不信」ではなく、「信頼」と「共助」によって支えられるべきものである。テクノロジーに頼ることで、私たちが“目を配る心”や“声をかける勇気”を失ってしまってはいけない。イカゲームのような世界を回避するためには、監視ではなく、つながりを育む社会づくりこそが求められているのではないだろうか。


川滿憲忠

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