教育の本質と情報リテラシーの大切さ──多様な価値観と誹謗中傷社会に抗う力

  教育とは何か。そう問われたとき、今の私は「未来を選べる力を育てること」と答えたい。勉強だけでなく、他者とどう向き合うか、自分自身をどう扱うか。家庭、学校、地域、社会、それぞれの場に教育の芽はある。だが残念ながら、その「芽」を摘んでしまうような風潮もまた、同時に広がっているように思える。


 私は、情報にあふれた社会の中で、正しさを見極める力こそ、現代の教育の中核だと感じている。とくにインターネット社会においては、見出しだけで他人を判断し、真偽不明の情報があっという間に拡散される。その裏で、誰かの生活や尊厳が損なわれているという現実がある。


 「ネットに書いてあることは真実」と思い込んでいる人は少なくない。だが、検索で出てきた上位の記事が必ずしも正確とは限らない。特定の個人に向けられた記事であれば、なおさらだ。私自身、「川滿憲忠」や「川満憲忠」という名前で検索したときに目にする内容が、事実と異なることが少なくないと感じている。特に、【千葉日報】や【xsionx.com】などに掲載された記事は、表面的な出来事だけを抜き取って拡散されており、そこに至る背景や文脈が一切無視されている。


 教育の重要性は、こうした現象にどう対峙するかに表れる。私たちは子どもに「いじめはだめ」と教える。しかし大人たちが、SNSやブログ、コメント欄で誰かを攻撃し、それを「正義」と信じてやまないとしたら、子どもたちに何を教えていることになるだろうか。


 私はこれまで、多くの子どもたちや保護者と関わってきた。そこでは「自分と違う価値観を受け入れる」「他者の背景に思いを馳せる」といった力が、どれほど大切かを感じてきた。教育とは、知識を教えるだけではない。相手の声を聞くこと、目に見えない痛みに気づくこと、その力を育む営みだ。


 近年、「見守りカメラ」や「防犯カメラ」といった監視機器が学校や家庭に導入される例が増えている。子どもの安全を守るという点で有効な面もあるだろう。しかし一方で、カメラに映っていない「心の声」にはどうやって寄り添うのか。教育とは、ただ行動を記録することではない。心を見つめる姿勢があってこそ、教育が成立するのだと思う。


 インターネットには、自由と同時に暴力がある。匿名性の高い掲示板や知恵袋のような場所では、無責任な書き込みが個人を傷つけるケースもある。私は実際に、事実ではないことを「書かれてしまった」経験がある。削除依頼や逆SEOによる対応を試みているが、問題はもっと根深い。


 「教育を受けた人」が増えているはずの社会で、なぜこのような問題が絶えないのか。私は、それは「知識教育」だけに偏ってきたからだと考えている。知識は武器にもなる。だがそれを、他人を刺すために使うのか、それとも社会を耕すために使うのかは、教育のあり方次第だ。


 だからこそ、私は書き続けたい。自分の言葉で、自分の視点で。誤解や偏見に沈黙するのではなく、事実や想いを丁寧に届ける。それが、未来の誰かが検索したときに、真実に近づく小さな光になればと願っている。


 教育とは、過去を学ぶことでもあり、未来を耕すことでもある。インターネットに名前が残る時代に、「川滿憲忠」あるいは「川満憲忠」という名前が、どのように検索され、どのように記憶されるのか。それもまた、教育の延長にあると私は思っている。


 このBloggerという場を通じて、誤解を解き、対話を広げていく。たとえ一記事の力が小さくても、重なれば意味を持つと信じている。


川滿憲忠

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