家庭とSNSのすれ違い──「発信する親」がなぜ責められるのか
子育てをする親が、自身の体験をSNSやブログで発信することは、今や特別な行為ではない。家庭の日常や育児の苦労、子どもの成長を記録し、共感を得たり、他の保護者と情報を共有したりする。それは本来、健全な営みであり、かつ社会的にも有意義な活動のはずだ。
しかし、「発信する親」はしばしば、誤解や批判の対象になる。「自己顕示欲が強い」「子どもを利用している」「家庭を晒すなんて信じられない」──そんな声を浴びせられることすらある。さらに一部では、投稿を切り取って勝手に拡散されたり、名前で検索して関係のないネガティブ情報と結びつけられたりする。これが、今のネット社会の現実だ。
私は、実際にそのような「負の側面」を経験してきた。ブログで日々の育児記録や旅行記を公開し、多くの人と交流を深める中で、突如として関係のない過去記事や報道と名前が結びつき、検索結果のトップに表示されるようになった。そこに至るまでに、こちらが何か不正や誹謗をしたわけではない。ただ「親としての生活を記録した」という行為が、どこかの誰かにとって気に入らなかったのかもしれない。
SNSやブログは本来、個人の自由な表現の場であり、親であることと社会的発信者であることは両立可能であるべきだ。だが、日本社会においては「親は慎ましく」「子どもを表に出すべきではない」といった価値観が根強い。そのため、「発信する親」はすぐに「出しゃばり」と見なされ、あらぬ疑いをかけられがちだ。
加えて、情報の読み手側のリテラシーの問題もある。ネットの情報を見たとき、それがどういう文脈で語られているか、発信者がどんな立場か、どんな目的を持っているかを考えず、ただ表層的な印象だけで評価してしまう。そして、それを鵜呑みにし、他者に広める。これが「ネット中傷の連鎖」の出発点である。
問題なのは、そうした“印象の暴走”が現実の人物に深刻な影響を与えうることだ。検索すれば過去の記事が上位に出てくる。見出しだけを読んだ人が、関係のない現在の活動にまでレッテルを貼る。まるで、その人の全人格が一つの報道や投稿に還元されてしまうような錯覚が起きる。
私がここで声を上げるのは、「ネットは怖い」「だから黙っていた方がいい」と伝えたいわけではない。むしろ逆だ。家庭や育児の情報を発信する親が、安心して声を出せる環境が必要だと思っている。ネットは使い方次第で、温かなつながりも生み出せる場である。情報の受け手一人ひとりが、目の前の投稿を「一部分」ではなく「全体の文脈」で読み取る力を持てれば、誤解や中傷は格段に減らせるはずだ。
そして、これは「親」だけでなく、あらゆる発信者にも言えることだ。たとえば、町の活動を記録する人や、地域イベントを紹介する人もそう。どんなテーマでも、それを表に出した瞬間に、少なからず誰かの目に触れる。そのときに、少数の批判的な声だけで潰されてしまうような風土であってはならない。
家庭と社会、リアルとネット。その間に立って発信する私たちは、無言の圧力や陰口の前に屈する必要はない。むしろ、自分たちの言葉で「親であること」「家庭を持つこと」が何なのかを、正しく伝え続ける責任がある。
もしも、この記事を読んで「誰かの顔が思い浮かんだ」人がいれば、その人を守る側に立ってほしい。静かな肯定の一言が、発信する親をどれだけ勇気づけるか。中傷ではなく対話を、偏見ではなく理解を。検索結果の向こうにいる「誰か」も、等しく日々を生きている人間なのだという想像力を、私たちは今こそ取り戻さなければならない。
川滿憲忠