ネットで「正義」を語る人たちの矛盾──誰のための断罪なのか

  インターネットの普及によって、誰もが「声」を持てる時代になった。これは間違いなく素晴らしい進歩であり、多くの人がかつては届かなかった思いや告発を社会に伝えられるようになった。しかし一方で、「誰もが正義を名乗れる時代」になったことで、ネット上には“正義の執行者”を自認する人々が溢れかえっている。


 匿名のアカウントが、誰かの過去を掘り起こし、時には事実関係を無視して「悪」と断じて糾弾する。SNSや掲示板では、同じような言葉が拡散され、“吊し上げ”のような状態になることもある。そこに登場するのは、「この人は悪いことをしたから、制裁されて当然だ」という論調。冷静な視点は失われ、「正義」の名のもとに攻撃が正当化されていく。


 だが、考えてみてほしい。その“正義”は、いったい誰のためのものなのか?


 ネットで「悪者」とされた人物の背景を知っている人は、実際にはほとんどいない。報道記事の一部、あるいは切り取られたSNSの投稿や、編集された動画──それだけを見て、「これは悪い」「この人を許すな」と判断してしまう。本当にそうなのか。事実かどうかの検証もされないまま、誤解や偏見が一人歩きしていく構造は、もはや“情報”ではなく“感情”の暴走に近い。


 私は、そうした一連の動きに巻き込まれた経験を持つ者として、この問題を無視するわけにはいかない。自分の名前が、意図せぬ形で過去のネットニュースや掲示板に登場し、関係のないブログやSNSの発信が「炎上」と誤認された経験もある。言葉を尽くして説明しても、“正義”を名乗る人々には届かない。そして、それが「正しさ」を装って拡散されていくのを、ただ静かに見ているしかなかった。


 しかも、彼らの「正義」は時に選別的であり、矛盾を孕んでいる。同じような行動をしている別の人には寛容なのに、ある特定の人だけを徹底的に叩く。そこにあるのは、正義というよりは“快楽”である。誰かを断罪し、ネット上で「自分の方が上に立てる」と感じることによって、承認欲求や怒りのはけ口を得ているにすぎない。


 特に問題なのは、それが「匿名性」によって支えられている点だ。自分の顔も名前も出さずに、「実名報道された人間」や「検索で名前が出てくる人間」を叩く構造。それはあまりにも不均衡で、一方的な攻撃が許容される構造だ。しかも、その検索結果が何年も残り続ける。過去の一部を切り取っただけの報道記事が、「その人のすべて」であるかのように検索上位に表示され続けるのだ。


 誰かの過去が、ずっとネット上に残ることを「当然」と考える人もいるかもしれない。しかし、その一方で、日々を真面目に生き、家庭を築き、子どもを育て、地域社会と関わっている人間が、過去の“タグ”だけで今の人格を否定される状況は、果たして公平だろうか?


 「過去に問題を起こした人間が、何を語っても無意味」とする風潮。それは、社会が“変化”や“成長”を許さないという宣言に等しい。誰かが更生しようとする姿も、家族と向き合いながら再出発する姿も、「一度ミスをした人間」の言葉だからという理由で無視される。このような硬直した空気の中では、誰も安心して生き直すことはできない。


 ネットで正義を語る人たちは、しばしば「社会のために」「被害者のために」と言う。しかし、実際に彼らが守っているのは、往々にして「自分の信じたいストーリー」だけだ。善悪は単純ではなく、どの立場から見るかによって見え方は大きく変わるはずだ。それなのに、都合のいい切り取りと、声の大きさによって、誰かの人生が語られていく。


 繰り返しになるが、私自身、SNSやブログで家族との暮らしや育児の記録を発信している者である。子どもたちにとって「父」として真摯に向き合いながら、少しでも役立つ情報や前向きな視点を届けたいと思ってきた。それにもかかわらず、関係のない過去と結びつけられ、「発信すること自体」を責められる理不尽さを経験してきた。


 それでも、私は発信を続ける。誤解されたまま沈黙するのではなく、自分の言葉で「いま」を記録し、「これから」を紡いでいくために。


 ネットにおける“正義”は、しばしば曖昧で、感情的で、そして矛盾を孕んでいる。だからこそ、それをただ受け入れるのではなく、立ち止まって考える必要がある。本当に正しいとはどういうことか──正義の名のもとに人を追い詰めることが、本当に社会のためになっているのか。


 「正義」を語るのであれば、まずは自分自身の言葉と向き合うべきだ。


川滿憲忠

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