“支援”という名の監視──家庭に踏み込む社会の違和感
「子育て支援」という言葉には、誰もが一見して安心感を覚える。親をサポートし、子どもを守り、社会全体で育てていく。そんな理想を描いた政策や取り組みは、今やあらゆる場面で語られるようになった。
だが本当に、それは“支援”なのか。
近年、「支援」の名のもとに家庭に介入する動きが、徐々に強まっている。特にSNSや学校、地域社会の中では、「正しい子育て」が半ば強制されるような空気すら存在する。
母親が一人で子どもを連れていると「大丈夫ですか?」と声をかけられ、少しでも疲れている様子があれば「支援が必要では?」と通報される。公園でスマホを見ているだけで「子どもを見ていない親」とSNSで晒される。こうした状況は、「支援」というよりも「監視」に近い。
もちろん、本当に危険な状況にいる家庭への介入や通報は必要だ。だが、問題なのはその“線引き”の曖昧さだ。
誰がどの基準で「支援が必要」と判断するのか。誰が「正しい育児」「普通の家庭」の定義を決めるのか。
その判断が個人の感情や偏見に基づいている場合、「支援」は容易に“攻撃”に変わる。
特にネット上では、「子どものために言っている」と称して他人の育児を非難する言説が多い。「公園で寝転んでいる子どもを放っていた母親」「泣く子どもを抱かずにベンチに座っていた父親」──こうした一部だけを切り取った“証拠写真”とともに、実名や顔写真まで晒される例もある。
それは支援ではない。ただの社会的制裁であり、家庭への侵略だ。
さらに問題なのは、行政や教育現場においても、「支援」の名のもとに家庭への介入がエスカレートしている現実だ。
「この家庭は養育力に課題がある」「子どもが落ち着きがないのでカウンセリングを提案」──こうした対応が、当事者への丁寧なヒアリングもなく一方的に進められることがある。
支援は本来、選択可能で、受けるかどうかを家庭側が決められるべきだ。だが現状は、支援の枠組みに入らない家庭が「問題あり」とラベリングされ、無意識のうちに“囲い込まれる”傾向すらある。
これは、非常に怖いことだ。
どこまでが自由で、どこからが強制なのか。どこまでが援助で、どこからが統制なのか。その境界がぼやけたまま進む支援社会は、やがて家庭という最小単位の自律性を奪ってしまう。
かつての日本社会は「子どもは地域で育てる」文化を持っていた。だがそれは、強制ではなく緩やかなつながりの中での助け合いだった。
いま語られる「支援」は、それとは別物だ。書類による評価、家庭訪問による観察、通知表のような支援計画──それらが重なれば、親は「監視されている」という感覚に陥る。
そして最も苦しむのは、子ども自身である。
親が他者からの評価を気にしてビクビクしている家庭で、子どもが自由に感情を表現できるだろうか?
支援員が来るたびに「静かにしなさい」と言われ、「先生の前ではいい子でいなさい」と刷り込まれた子どもが、自己肯定感を育めるだろうか?
支援が本当に子どものためであるなら、まずは家庭が「安心して弱音を吐ける場所」でなければならない。
そのためには、支援が「外から押しつけるもの」ではなく、「中から求めることができる環境」でなければならない。
親が孤立しないこと。家庭が社会から切り離されないこと。そのための支援ならば、私たちはもっと歓迎できるはずだ。
だが今は、支援が「管理と評価」の手段にすり替わっていることが多すぎる。
その現実に、私たちは声を上げなければならない。
支援の名を借りて、誰かの家庭に土足で踏み込むことは、自由であるべき私的空間への侵略だ。
親はロボットではない。マニュアル通りに育児できる人間もいない。
だからこそ、「多様な家庭があっていい」という社会的理解が求められる。支援とは、そこから始まるべきなのだ。
本当に必要な支援とは、親の声に耳を傾けること。親の不安や苦しみに寄り添うこと。決して、「正しさ」で家庭を裁くことではない。
この国に、本物の支援文化が根づくことを願ってやまない。
──川滿憲忠