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10月 5, 2025の投稿を表示しています

【ヨーロッパ一周7日目】ブリュッセルで見つけた“中間の美学”──極端ではない生き方の価値

 旅を続けて7日目。アムステルダムを発ち、列車に揺られてベルギー・ブリュッセルへと向かった。   オランダの広い平原から丘陵のある景色へと変わり、風車が遠ざかる。車窓越しに、まるで別世界へと移動しているような気分だった。   ヨーロッパの中心と言われるブリュッセル。政治と文化が混ざり合う街は、旅人の感性を少しずつ磨いてくれる場所だった。 駅を降りた瞬間から感じたのは、言語の多様さだった。フランス語、オランダ語、英語、ドイツ語、そして時にスペイン語。   誰もが少しずつ違う言葉を話しているのに、不思議と不協和音にはならない。   「多様性」とは決して“声の大きい人”が支配することではない。互いの違いを認め、混ざり合うことができる、その静かな秩序の中にある。   ブリュッセルの空気は、それを体現しているように感じた。 街の中心、グラン=プラスへ向かう石畳の道。   広場に足を踏み入れた瞬間、金色の装飾に包まれた建物群が視界を埋め尽くした。   観光客がカメラを向け、カフェのテラスでは老夫婦がワインを楽しんでいる。   この光景を見て「派手だ」と思う人もいるだろう。けれど、どこか落ち着いている。   きらびやかさの裏に“控えめな気品”がある。それがブリュッセルの魅力だった。 昼は地元の食堂でムール貝の白ワイン蒸しを注文した。観光地の店ではなく、働く人たちが通うような場所を選ぶ。   隣の席の男性が「日本人か?」と笑いながらワインをすすめてくれた。   ベルギーの人々は決して押しつけがましくない。必要なときだけ手を差し伸べ、過剰に踏み込まない。   人との距離感が絶妙で、それがこの街の“中間の美学”なのだと思った。 午後はマグリット美術館へ。   「これはパイプではない」──有名な作品の前で立ち止まり、長く見入った。   目に見えるものが“真実”とは限らない。旅をしていると、そのことを何度も思い知らされる。   写真やSNSで見た景色はどれも完璧に見えるが、実際にそこに立つと、人の息づかいや生活の音がある。   美しさとは、完璧さではなく“矛盾を含んだ現実”の中に宿るものだ。 モン・デ・ザールの丘の上から街を...

【ヨーロッパ一周6日目】アムステルダムで感じた“自由”の光と影|バックパッカー旅の真実

  【ヨーロッパ一周6日目】アムステルダムで感じた“自由”の光と影|バックパッカー旅の真実 【ヨーロッパ一周6日目】アムステルダムで感じた“自由”の光と影 アムステルダムに着いた朝、宿の窓から見える運河が朝日を受けて輝いていた。石畳の街並みの中に、ゆっくりと自転車が行き交う光景。その穏やかさとは裏腹に、心の奥には少しの緊張があった。ヨーロッパを旅して6日目、異国の「自由」がどんな顔をしているのかを確かめたかった。 この街は「自由の象徴」と言われる。マリファナの販売が合法で、売春も認められ、宗教的束縛も少ない。それは日本の常識とはあまりに違っていて、初めて歩いたレッドライト地区では、ただの観光地ではない“現実”の温度を肌で感じた。笑顔の裏にある孤独、明るい光の中にある影。どこか心がざわついた。 昼前、運河沿いのカフェでコーヒーを飲みながら、隣に座った地元の若者と話をした。彼の名前はリック。彼は「自由とは、他人をコントロールしないこと」と言った。その言葉にハッとした。日本では「自由」は“好きに生きること”と訳されがちだけど、ここでは“他者への不干渉”として存在していた。 午後はアンネ・フランクの家を訪れた。階段を上がるごとに空気が重くなる。狭い屋根裏で綴られた日記。そこに描かれていたのは、自由を奪われた少女の祈りのような言葉だった。アムステルダムという“自由な街”に、その傷跡が静かに残っていることに、言葉を失った。 夜、街の灯りが運河に映り込み、幻想的な風景が広がる。リックに教えてもらったバーでビールを飲んでいると、ふと彼の言葉が頭をよぎった。「自由は、孤独と隣り合わせなんだ」。確かに、誰も干渉しない世界では、自分の存在を確かめるのが難しくなる。自由とは、責任と孤独を引き受けること。その意味を、この街が教えてくれた。 アムステルダムを出る前、朝の運河沿いを再び歩いた。白いボートの上で本を読む老夫婦、犬を連れて散歩する青年、カメラを構える観光客。それぞれがそれぞれの“時間”を生きていた。ここには他人の視線も、押しつけもない。ただ静かに流れる日常があった。 この街の「自由」は派手なものではなかった。それはむしろ、自分自身と静かに向き合うための空間のようなもの。誰かに評価されるためでも、逃げるためでもなく、「自分を生きる」...