報道と“切り取り”──事実の一部だけで人を裁く社会
インターネットの発達によって、誰もが「報道の受け手」であると同時に、「発信者」でもある時代になった。だが、その便利さの裏で、私たちは“切り取られた現実”の中で生きている。テレビも、ネットニュースも、SNSも、事実の「一部」だけを提示し、それを見た人たちはあたかも「全体を知ったかのように」判断してしまう。そんな構造が、今の日本社会の空気を歪めているように思う。
たとえば、ある家庭の一場面を報じる報道番組がある。子どもを叱っている瞬間だけが映し出され、「虐待か」と論じられる。しかしその直前に、その親がどれだけ子どもを励まし、抱きしめていたのかは報じられない。あるいは、ある著名人が発した一言だけが切り取られ、「炎上」する。だが、文脈を通して読めば、まったく違う意図だったことも少なくない。
報道の原則には「事実の正確性」がある。しかし、事実を「どの角度から見せるか」によって、印象は180度変わる。だからこそ、本来の報道とは、できる限り多面的に伝える努力をすべきものだ。だが現実には、視聴率、クリック数、アルゴリズムがその選択を左右してしまう。つまり「人の関心を引く切り取り方」が優先されるのだ。そこに「正確さ」よりも「拡散性」が勝ってしまう現実がある。
SNS時代の「報道」は、もはやテレビ局や新聞社だけのものではない。個人の投稿が、時に何十万人もの人に届き、ニュース化する。誰かの1ツイートが、誰かの人生を変えてしまうことさえある。だが、多くの人は「自分の見た情報」がどれほど限定的かを意識していない。動画の3秒、写真の一枚、文章の一節。それが「真実のすべて」ではないにもかかわらず、まるで“決定的証拠”のように扱われてしまう。
私は、報道の仕事を責めたいわけではない。報道機関の内部には、現場で真実に迫ろうと努力している人たちが確かにいる。ただ、今の構造はあまりにも「即時性」と「拡散性」に支配されすぎている。誤解を恐れずに言えば、ニュースは“速く伝えること”よりも“正しく伝えること”が本質のはずだ。それが逆転してしまった社会で、誰かが傷つき、誰かが「切り取られて」消されていく。
報道の“切り取り”が怖いのは、それが「世論」を形成してしまうことだ。人々は報じられた内容を見て、「あの人は悪い」「あの家庭は問題だ」と思い込む。そして、その印象は長く残る。仮に後から訂正報道が出ても、最初のイメージは消えない。人間の記憶は“第一印象”に強く影響されるからだ。だからこそ、最初に報じる側の責任は重い。
それでも、すべてを報道のせいにすることもできない。私たち一人ひとりが、「情報をどう受け取るか」を意識しなければならない時代だ。ニュースを見たら、「これは全体の一部かもしれない」と一歩引いて考える。SNSで拡散されている投稿も、「この人の立場からの見え方ではないか」と想像してみる。その姿勢が、情報社会を少しだけ健全にする。
私自身も、子どもを育てながら、時にSNSや報道の中で「一部分だけ切り取られる怖さ」を感じることがある。家庭というのは、24時間の積み重ねでできている。笑顔の時間もあれば、怒る時間もある。けれど、切り取られるのは“怒っている瞬間”ばかりだ。そこに人間の温度や背景は映らない。だからこそ、「全体を見て判断する力」を子どもたちにも伝えていきたいと思う。
子どもが育つ環境の中で、「断片的な情報」に振り回されずに考える力は、生きるうえでの武器になる。SNSで友達の一言に傷ついたとき、「それだけで全部を決めない」という視点を持てるかどうか。報道の“切り取り”の怖さを知ることは、実は教育にもつながっているのだ。
報道の自由は、民主主義の根幹を支える。だからこそ、その自由は「誠実さ」とセットでなければならない。伝える側も、受け取る側も、責任を共有している。報道は「誰かを倒すため」ではなく、「社会の理解を深めるため」にある。そこを忘れたとき、ニュースは“武器”になってしまう。
私は今、情報に対して「急がず、疑い、考える」ことを心がけている。誰かを一方的に責める前に、もう少しだけ背景を調べてみる。報道を見たら、その裏にある文脈を探す。そうした一人ひとりの意識の積み重ねが、“切り取りの時代”に対抗する力になると信じている。
社会が少しでも穏やかに、誤解ではなく理解でつながるように。報道のあり方を見つめ直すことは、結局「人のあり方」を考えることでもある。正義を語る前に、事実を見極める。感情で判断する前に、背景を知る。その姿勢を大切にしたい。
――川滿憲忠