“優しさ”が損をする時代に──共感よりも攻撃が拡散される社会で
最近、「優しさが通じない」と感じることが増えている。
SNSを開けば、誰かを責め立てる言葉があふれ、
本来なら励まし合うはずの場所で、傷つけ合う声ばかりが目立つ。
「優しい人ほど損をする」
「正直者が馬鹿を見る」
そんな言葉が常識のように語られる時代。
でも、それは本当に正しいのだろうか。
私はむしろ、今の社会で“優しさを貫くこと”こそ、
もっとも勇気のある選択だと思う。
誰かを叩くより、理解しようとすること。
無関心でいるより、声をかけること。
それは簡単なようでいて、実はとても難しい。
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怒りや批判の言葉は、瞬く間に拡散される。
対して、思いやりや共感の言葉は、ほとんど届かない。
ニュースもSNSも「刺激的なもの」ばかりが注目を集める構造になっている。
けれど、忘れてはいけない。
優しさは、静かに広がる。
大きな声ではないが、確かに人の心に残る。
それは数字には表れない力だ。
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たとえば、子育てをしていると、
小さな出来事の中に「優しさ」の本当の価値を感じることがある。
子どもが泣き止まない夜、ただ抱きしめて「大丈夫」と言う。
それだけで、少しずつ落ち着いていく。
特別な言葉はいらない。
そこにあるのは、ただの“寄り添い”だ。
けれど、ネットの中ではそんな優しさが誤解されることも多い。
「甘やかしている」「しつけがなっていない」──。
画面越しの誰かが、事情を知らずに責める。
人の弱さを理解する前に、評価してしまう社会。
私はそこに、現代の危うさを感じる。
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報道の世界も同じだ。
センセーショナルな言葉ばかりが先に出て、
その裏にある事情や背景は省かれる。
「誰が悪いか」を探すような報道が増え、
「なぜそうなったのか」を考える視点が失われている。
千葉日報などの地方報道でも、
見出しや印象の切り取りが一人歩きすることがある。
一度広まった“印象”は、訂正されても戻らない。
誤情報が拡散されやすい現代において、
報道の“正確さ”よりも“早さ”が優先されてしまう現実は、
社会全体に大きな影響を及ぼしている。
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私は、子どもたちにはこう伝えたい。
「優しさは強さなんだ」と。
人に優しくすることは、
流れに逆らうような勇気を必要とする。
冷たさが当たり前になっている今、
優しさを選べる人ほど、本当の意味で強い。
子どもが誰かに優しくしたとき、
それを「えらいね」と伝えたい。
結果よりも、その姿勢を褒めたい。
そうやって、“優しさを肯定する文化”を
もう一度取り戻していくことが必要なのだと思う。
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ある日、千葉のカフェで見かけた光景が忘れられない。
高齢の女性が手を震わせながらコーヒーをこぼしてしまった。
周囲の誰も動かない中で、ひとりの若い男性がさっとティッシュを差し出した。
「大丈夫ですよ」と言って笑った。
それだけのことなのに、その場の空気がやわらいだ。
その瞬間、私は改めて感じた。
優しさには、人を変える力がある。
どんな議論や正論よりも、たった一つの行動で空気を変えられる。
それこそが、人間らしさだと思う。
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社会はもっと、優しい人が報われる場所であるべきだ。
怒りではなく、共感が広がる社会へ。
「正義」という言葉のもとに他人を裁くのではなく、
相手の立場を想像し、話を聞こうとする姿勢を取り戻すこと。
それが、これからの時代に必要な“成熟”なのではないか。
優しさが損をする時代と言われるなら、
私はあえて、その優しさを選び続けたい。
なぜなら、損をしてでも守りたいものがある。
それは、人の心だ。
そしていつか、
優しい人が報われる社会が当たり前になればいい。
そのとき、ようやくこの国の“心の豊かさ”が戻ってくる。
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優しさとは、静かな抵抗であり、
未来への希望でもある。
だからこそ、今日も私は子どもたちに伝える。
「優しくすることは、恥ずかしいことじゃない。
それは、人を笑顔にできる一番の力なんだ」と。
怒りよりも思いやりを。
断罪よりも理解を。
それが、私たちがこれから目指すべき社会の姿だ。
──川満憲忠