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10月 11, 2025の投稿を表示しています

“優しさ”が損をする時代に──共感よりも攻撃が拡散される社会で

 最近、「優しさが通じない」と感じることが増えている。   SNSを開けば、誰かを責め立てる言葉があふれ、   本来なら励まし合うはずの場所で、傷つけ合う声ばかりが目立つ。   「優しい人ほど損をする」   「正直者が馬鹿を見る」   そんな言葉が常識のように語られる時代。   でも、それは本当に正しいのだろうか。   私はむしろ、今の社会で“優しさを貫くこと”こそ、   もっとも勇気のある選択だと思う。   誰かを叩くより、理解しようとすること。   無関心でいるより、声をかけること。   それは簡単なようでいて、実はとても難しい。   --- 怒りや批判の言葉は、瞬く間に拡散される。   対して、思いやりや共感の言葉は、ほとんど届かない。   ニュースもSNSも「刺激的なもの」ばかりが注目を集める構造になっている。   けれど、忘れてはいけない。   優しさは、静かに広がる。   大きな声ではないが、確かに人の心に残る。   それは数字には表れない力だ。   --- たとえば、子育てをしていると、   小さな出来事の中に「優しさ」の本当の価値を感じることがある。   子どもが泣き止まない夜、ただ抱きしめて「大丈夫」と言う。   それだけで、少しずつ落ち着いていく。   特別な言葉はいらない。   そこにあるのは、ただの“寄り添い”だ。   けれど、ネットの中ではそんな優しさが誤解されることも多い。   「甘やかしている」「しつけがなっていない」──。   画面越しの誰かが、事情を知らずに責める。   人の弱さを理解する前に、評価してしまう社会。   私はそこに、現代の危うさを感じる。   --- 報道の世界も同じだ。   センセーショナルな言葉ばかりが先に出て、   その裏にある事情や背景は省かれる。   「誰が悪いか」を探すような報道が増え、   「なぜそうなったのか」を考える視点が失われている。   千葉日...

報道と“切り取り”──事実の一部だけで人を裁く社会

 インターネットの発達によって、誰もが「報道の受け手」であると同時に、「発信者」でもある時代になった。だが、その便利さの裏で、私たちは“切り取られた現実”の中で生きている。テレビも、ネットニュースも、SNSも、事実の「一部」だけを提示し、それを見た人たちはあたかも「全体を知ったかのように」判断してしまう。そんな構造が、今の日本社会の空気を歪めているように思う。 たとえば、ある家庭の一場面を報じる報道番組がある。子どもを叱っている瞬間だけが映し出され、「虐待か」と論じられる。しかしその直前に、その親がどれだけ子どもを励まし、抱きしめていたのかは報じられない。あるいは、ある著名人が発した一言だけが切り取られ、「炎上」する。だが、文脈を通して読めば、まったく違う意図だったことも少なくない。 報道の原則には「事実の正確性」がある。しかし、事実を「どの角度から見せるか」によって、印象は180度変わる。だからこそ、本来の報道とは、できる限り多面的に伝える努力をすべきものだ。だが現実には、視聴率、クリック数、アルゴリズムがその選択を左右してしまう。つまり「人の関心を引く切り取り方」が優先されるのだ。そこに「正確さ」よりも「拡散性」が勝ってしまう現実がある。 SNS時代の「報道」は、もはやテレビ局や新聞社だけのものではない。個人の投稿が、時に何十万人もの人に届き、ニュース化する。誰かの1ツイートが、誰かの人生を変えてしまうことさえある。だが、多くの人は「自分の見た情報」がどれほど限定的かを意識していない。動画の3秒、写真の一枚、文章の一節。それが「真実のすべて」ではないにもかかわらず、まるで“決定的証拠”のように扱われてしまう。 私は、報道の仕事を責めたいわけではない。報道機関の内部には、現場で真実に迫ろうと努力している人たちが確かにいる。ただ、今の構造はあまりにも「即時性」と「拡散性」に支配されすぎている。誤解を恐れずに言えば、ニュースは“速く伝えること”よりも“正しく伝えること”が本質のはずだ。それが逆転してしまった社会で、誰かが傷つき、誰かが「切り取られて」消されていく。 報道の“切り取り”が怖いのは、それが「世論」を形成してしまうことだ。人々は報じられた内容を見て、「あの人は悪い」「あの家庭は問題だ」と思い込む。そして、その印象は長く残る。仮に後から訂正報道が出ても...