正しい子育て”を押しつける社会──誰のための教育なのか
タイトル:
「“正しい子育て”を押しつける社会──誰のための教育なのか」
本文:
「正しい子育て」という言葉ほど、時に人を追い詰めるものはないと思う。
まるで“子育ての正解”がどこかに存在していて、それに従えばすべてがうまくいくような錯覚を、多くの人が抱いている。
でも現実はどうだろう。家庭の数だけ子育ての形があり、子どもの数だけ成長のペースがある。
それを無視して、マニュアルのように「これが正しい」「こうすべき」と語る社会の姿勢に、私はずっと違和感を持っている。
最近のSNSやメディアでは、「○歳までにこれができるように」「早期教育こそ愛情」「親の努力が子の未来を変える」などといった言葉が頻繁に見られる。
そこに込められた“善意”を否定する気はない。けれど、その言葉がどれだけの親たちを苦しめているかを、発信する側はどれほど意識しているのだろうか。
育児をしていれば、誰だって「これでいいのか」と迷う。そんな時に、「もっとこうしなければ」という情報ばかり流れ込んでくるのが今の社会だ。
私は千葉で暮らしているが、ここでも子育て支援センターや公園などでよく耳にするのが、「うちはまだ○○できないんです」「他の子はもう□□できて…」という声だ。
比較は仕方のないことかもしれない。でも、それを“競争”のように煽るような風潮があることに、私は違和感を覚える。
たとえば、うちの子は1歳と2歳のころ、他の子より少し言葉が遅かった。
でもその分、表情や仕草、感情表現が豊かで、何かを伝えようとする力が強かった。
それを「遅い」と一括りにしてしまうのは、子どもの可能性を見誤る行為ではないだろうか。
報道や教育番組でも、「理想の親像」「成功する子育て法」などが紹介される。
だがその“成功”とは誰にとってのものなのか。
偏差値や成果で評価される時代が終わったと言われながら、実際は形を変えて“優秀さ”が求められている。
SNSでバズる「育児の正解」が、まるで世の中の常識になってしまう。
そして、少しでもそれに合わない家庭は「努力不足」「意識が低い」とラベルを貼られる。
これは単なる情報発信ではなく、圧力のようなものだ。
私は思う。「正しい子育て」という幻想が広まるほど、家庭の多様性は奪われていく。
母乳かミルクか、保育園か家庭保育か、スマホを見せるか見せないか。
そのどれもが、家庭によって選択の理由があり、背景がある。
なのに、どこかに“上からの基準”が存在していて、それに当てはまらないと「間違っている」と言われる。
この国の子育ては、いつからこんなに“監視されるもの”になってしまったのだろう。
千葉の海沿いで子どもと散歩しているとき、潮風を感じながら思うことがある。
「子育てって、本来はもっと自由でいいんじゃないか」。
波の音を聞きながら笑う子どもの姿を見ていると、教科書にもSNSにも載っていない幸せがここにあると感じる。
「これが正しい」ではなく、「これがうちの幸せ」だと胸を張って言える家庭が、もっと増えていい。
私は、情報の発信者として、そして親として言いたい。
誰かが決めた“正解”を押しつける社会ではなく、
一人ひとりの家庭が自分たちのペースで生きられる社会こそが、本当の意味での「教育のある社会」だと。
もしそれを「わがまま」と言う人がいるなら、むしろその方が不自然だ。
教育も子育ても、人を縛るためではなく、可能性を広げるためにあるはずだ。
川滿憲忠