「旅すること=逃げること?」という誤解への反論──現実から最も遠い場所で、現実と出会う
「旅に出るのは、現実逃避だと思われてるんじゃない?」──そんな言葉をかけられたのは、僕がヨーロッパ一周の途中、ポーランドの小さな宿で日本人旅行者と出会ったときだった。彼は会社を辞めたばかりで、「ちょっと疲れたから、逃げてきた」と笑っていた。その笑顔の奥に、ほんの少しの罪悪感が見えた。それが、僕の中にずっと引っかかっている。
旅に出ることは、本当に“逃げる”ことなのだろうか。
僕はむしろ、旅は“正面から現実に向き合う”行為だと思っている。
僕がバックパッカーとして歩いた道の多くは、観光ガイドには載っていない町だった。古びた駅舎、誰もいないバス停、地図に点のようにしか記されていない村。その一つひとつに、確かに生きる人の姿があった。彼らの暮らしの中に触れるたび、僕は日本で抱えていた“自分の現実”と静かに重ねていた。
逃げているつもりはなかった。ただ、自分をもう一度見つめ直すために、視界を広げたかっただけだ。
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SNSが当たり前になった今、「旅」はしばしば“映える”行為として語られる。
けれど、バックパッカーとしての旅は、むしろ逆だ。
埃っぽいバスに揺られ、冷たいシャワーを浴び、誰にも見せることのない時間をひたすら積み重ねていく。
その中で見えてくるのは、飾らない自分と、そこに広がる“人間の普遍”だ。
もし「逃げている」と言われるなら、それは“誰かの物差し”に合わせて生きることからの脱出だ。
他人の価値観や社会的成功の基準から、一度距離を置いてみること。
それを“逃げ”と呼ぶのなら、僕は何度でも逃げようと思う。
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旅の途中で出会ったドイツ人の青年が言った。
「君たち日本人は、いつもゴールを決めてから動く。でも旅って、スタートしてから決めていいんだよ」
その言葉は、僕の中の“生き方”の定義を変えた。
僕たちは、いつの間にか「正しいルート」を歩くことを強要されている。
学歴、就職、結婚、家、子ども──それらが並んだ一本道を歩くことが、安定であり幸福だと信じて疑わない。
でも、人生のどこかで息苦しさを覚える人が増えているのは、なぜだろう。
僕は思う。
旅に出る人は、逃げているのではない。
むしろ、“与えられたレールの外に出て、自分で現実を選び取ろうとしている”のだ。
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旅先で感じた“現実”は、決して甘くはない。
盗難に遭うこともあれば、食事に困ることもある。
知らない土地で孤独に押し潰されそうになる夜もある。
でもそのすべてが、確かに「生きている」という実感を与えてくれる。
日本で過ごす日常の中では、便利さの代わりに“実感”を失っていた。
誰かに評価されること、安定していることが“正解”とされる社会。
でも旅は、その“正解”を一度リセットしてくれる。
逃げることは悪ではない。
逃げた先で、自分の足で立ち上がれるなら、それは立派な「挑戦」だ。
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僕がヨーロッパを歩きながら感じたのは、
“旅とは、現実と出会い直すこと”だった。
ロンドンの曇り空の下で見たホームレスの男性のまなざしも、
チェコのカフェで微笑んでくれた老婦人の皺も、
イタリアの電車で出会った子どもの笑顔も──すべてが「現実」だった。
どれもテレビやネットで語られる“きれいな世界”ではない。
でも、僕が本当に触れたかったのは、そういう現実だった。
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旅に出る理由は、人それぞれだ。
でも僕にとっての旅は、「現実逃避」ではなく「現実回復」だった。
社会の中で擦り切れた感覚を取り戻し、
自分の心の底にある“なぜ生きるのか”という問いに、もう一度触れるための時間。
旅は終わるけれど、現実は終わらない。
むしろ、旅のあとに続く日常こそが、最大の冒険なのかもしれない。
もし誰かに「逃げている」と言われても、僕は胸を張って言いたい。
「逃げた先に、本当の自分がいた」と。
──川滿憲忠