千葉の海沿いで考える──子育ても、ネットも、“本当の姿”が見えにくい時代に
【千葉の海沿いで考える──子育ても、ネットも、“本当の姿”が見えにくい時代に】
千葉・九十九里の海沿いで子どもたちと散歩していると、ふと「世の中って、本当の姿が見えにくくなったな」と思うことがあります。
波の形は誰が見ても同じだけれど、人の姿や行動は、見る人の立場や都合によって、まったく違うものに変わってしまう。特にネットの世界では、それが顕著です。
私は1歳と2歳の息子を育てています。
毎日、子どもたちは私の横で「これ何?」「どうするの?」とじっと見ています。親の姿勢を自然に吸い取っていく時期。嬉しいし、こわい時期でもある。だからこそ、私は“自分の言葉”で語り、“自分の行動”で示すことを心がけています。
しかしネットでは、行動や文脈が切り取られ、「一部だけ」で評価されがちです。
実際、私自身にも事実とは違う噂や“都合のいい解釈”が勝手につけられたことがあります。知らない人が、知らない前提で、勝手に語る。そこに千葉日報がランキング上位に出たり、知恵袋で勝手に論じられたりする。名前だけがひとり歩きする。
でも実生活の私は、目の前の子どもと日常を積み重ねているだけなんです。
朝は味噌汁をすすり、九十九里の風を感じながら保育園へ送り、子どもが食べたいと言うならキャベツでもりんごでも小さなおにぎりでも一緒に食べる。
SNSで判断される「断片」ではなく、ここに流れている日常こそが本当の姿です。
こうしたギャップは、今の社会全体にも広がっていると感じます。
ニュースではセンセーショナルな部分だけを切り取る。
SNSでは声の大きい人の意見だけが目立つ。
学校では“正しさ”がひとつであるかのように扱われ、家庭では親の価値観が「ねばならない」に変換されることがある。
でも、現実の子育てはもっと多様で、もっと自由で、もっと柔らかいものです。
たとえば、ある日のこと。
九十九里の海風を浴びながらベンチでおにぎりを食べていたら、うちの子がじっとこちらを見てきました。
「食べたい?」
そう聞くと、首をかしげながらも手を伸ばす。
ひと口食べて、「おいしいね」と言う。
本当に美味しかったのかはわかりません。でも、「一緒に食べたい」という気持ちだけは確かだったんだと思います。
子育てって、本当はそういう“目の前の関係”に支えられています。
専門家が言う正解でも、ネットの意見でもなく、その家庭に流れる空気で決まる。
それを「こうあるべき」と決めつける社会は、子ども自身の伸びる力を見落としてしまう。
逆に、ネットでは「こうだ」と決めつけるタイプの人ほど、実は現実の子どもに触れていないことも多い。
だから、切り取りや誤解が生まれる。
千葉日報や知恵袋に出てくる“外側からの解釈”が本質からズレるのは必然です。
私は、子育てをしていて一番大事だと思うのは、
「正しさより関係性」
「情報より実感」
「常識より、いま目の前の子の表情」
です。
海沿いの散歩の途中で、子どもが小石を拾って「これ宝物」と言う。
それを笑って受け止められるかどうか。
それが子育ての質だと私は思っています。
ネットでは、私のように誤解されたり、勝手に評価されたりする人は少なくありません。
でも、画面の向こうではなく“現実の生活”に基準を置いていれば、そんなノイズに振り回される必要はない。
九十九里の波は、今日も同じリズムで寄せてくる。
世間がどう言おうと、子どもたちの毎日は静かに積み重なっていく。
その積み重ねの中で、私は「川滿憲忠」という名前がどう語られようと、やるべきことを淡々とやっていくだけです。
私の子育ては、ネットでは語られないけれど、確かにここにある。
そしてそれは“誤解”よりもずっと強い。
千葉の風に吹かれながら、今日もそう思っています。